聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

史上最高のアメリカ映画?! 『ゴッドファーザーPARTⅡ』

昨日(史上最高のアメリカ映画!? 『ゴッドファーザー』)の続きで今日は『ゴッドファーザーPARTⅡ』です。

世に続編映画は数あれど、ここまで完璧な続編というか、これは正確には続編ではないんですよね。マイケルのその後、マイアミのドン、ハイマン・ロスとの闘いなどより、それと対比された若き日のヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)を描くことが主眼ですからね。だから今風に言えば、『エピソード0』ですかね。PARTⅠの前日譚をやるのはこの『ゴッドファーザーPARTⅡ』が嚆矢でしょう。すぐれた発明です。

このPARTⅡではデ・ニーロの芝居が何といっても素晴らしいんですよね。

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とはいえ、上の場面を選んだのは、デ・ニーロだからではなく、ここにこのPARTⅡのあらゆるドラマの種が潜んでいるからです。


街のガン・ファヌーツィ
ヴィトーはパン屋でまじめに働く好青年でしたが、ある日、街を牛耳るファヌーツィというドンが甥っ子をこの店で雇ってくれとやってくる。店主はファヌーツィにだけは逆らえない、逆らったら恐ろしい目に遭うということで、しょうがなくデ・ニーロをクビにします。店主の気持ちが痛いほどわかるのであっさり店を去っていくヴィトー。

ファヌーツィは街のガンでした。誰も彼もがファヌーツィのために苦しんでいる。ひょんなことからすでに闇の稼業に手を染めていた、後年彼の右腕になるクレメンツァと知り合ったヴィトーは、同じく将来の右腕テシオと3人で裏の商売を始めます。が、ファヌーツィから法外な金を要求される。ヴィトーは誠心誠意を込めてファヌーツィにもう少し負けてはくれまいかと頭を下げますが、金の亡者ファヌーツィはビタ一文負けるわけにはいかないと去っていきます。

そこでヴィトーは決心します。ファヌーツィを殺そうと。あいつを殺さなければ街のみんなは幸せになれない。


マイケルのために初めて人を殺す
そして、あの名場面です。祭りで賑わう街をよそにヴィトーはファヌーツィを見事に殺します。ヴィトーにとって初めての殺人です。そして、拳銃をバラバラにして始末したあと自分の家に帰ります。家の前の階段に座っていたのは他でもない、幼少時のマイケルでした。ヴィトーは「マイケル、マイケル」と、おまえのために俺はやってきたぞ、という感じで抱き上げます。

ヴィトーは金の亡者であるファヌーツィを殺して新たなドンとして街を支配しますが、決してファヌーツィのように法外な金を要求したりしません。払えない人の願いでもちゃんと聞いてあげる。PARTⅠで金のことばかり言う葬儀屋を叱責するのは俺はファヌーツィにはならないと決意したからでしょう。

でもヴィトーは悪人です。暴力で問題を解決する以上しょせん薄汚れた悪人にすぎない。ヴィトーはそれをよくわかっています。だからPARTⅠで「マイケル、おまえにだけはこの仕事はさせたくなかった」と言うのです。

俺は薄汚れた悪人だ、でも俺のような悪人がいなければ苦しまねばならない人がいる。とヴィトーは汚れ役を買って出るのです。納得のいかない理由で仕事をクビになったことがその原因ですね。だから上の画像を選んだわけです。

街のみんなのために、家族のために、かわいい三男坊マイケルのために初めてヴィトーは人を殺します。

PARTⅠでマイケルも中盤で初めて人を殺します。マイケルは戦争の英雄ですから、すでにたくさんの人を殺してるはずです。だから初めての人殺しではないものの、非合法の人殺しはあの場面が初めてです。トイレの貯水槽に隠した拳銃で殺す場面ですね。

ヴィトーはマイケルのために、マイケルはヴィトーのために初めて人を殺すのですが、それを契機にヴィトーとマイケルの運命は真逆の方向へ変わっていきます。ヴィトーが誰からも敬愛されるドンになっていくのに対し、マイケルは誰からも愛されない、金しか信用できない孤独なドンに成り下がっていきます。

マイケルのために金の亡者ファヌーツィを殺したのに、そのマイケルがファヌーツィと同じ金の亡者になってしまう。

壮大にして完璧な悲劇です。ここまで完璧な悲劇は映画の世界では他にないんじゃないでしょうか。

PARTⅠで描いた「父親を乗り越えられなかった息子」の物語を、父親の若き日を描くことでその悲劇性をさらに高める。PARTⅠとPARTⅡではほとんど同じことを語っているんですが、PARTⅡでより深化してるんですね。Ⅱのほうが好きという人が多いのもうなずける出来栄えです。

実はこの次、『PARTⅢ』は封切の時に1回見たっきりなんですが、これをいい機会に見直してみようかな、と思っています。
PARTⅡのブルーレイの音声解説で最後にコッポラが「Ⅲでは、善人になった元悪人と悪人になった元善人の対決が描かれる」と言ってるんですよね。

そんな話でしたっけ??? 見なくては。



史上最高のアメリカ映画!? 『ゴッドファーザー』

イギリスのBBCが世界各国の映画評論家にアンケートを取って、「最高のアメリカ映画100本」を選出しました。

1位はまたぞろ『市民ケーン』ですが、2位は『ゴッドファーザー』でした。そして10位に『ゴッドファーザーPARTⅡ』が入っています。だから合わせ技でこのシリーズが史上最高のアメリカ映画といっても過言じゃないのでは?

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『ゴッドファーザー』の主人公は誰か
よく、「『ゴッドファーザー』の主人公はマイケル(アル・パチーノ)だ」というと、「ヴィトー(マーロン・ブランド)だろう」と言い返されるんですが、それは明らかな間違いです。

この映画のクライマックスは、上の画像にあるように、マイケルが妹コニーの旦那を平気で殺す冷酷非情なゴッドファーザーになった場面です。妻のダイアン・キートン(役名失念)に「ほんとにコニーの旦那さんを殺したの?」と聞かれて「ノー」と答えます。ファーストシークエンスではあどけない顔の若者として登場したマイケルが最終的に最愛の妻にさえ平気で嘘をつく人相の悪い男になってしまう。あの「ノー」の場面がこの映画のクライマックスですね。

ヴィトーはクライマックスのはるか前に死んでしまうのだから主人公であるはずがありません。


ホームドラマ
この記事には「ホームドラマ」のタグを付けていますが、「『ゴッドファーザー』はホームドラマだ」というと、これにも異議を唱える人がいるんですよね。

なぜでしょう?

マイケルが裏の稼業に手を染めるのは父ヴィトーが撃たれ少しでも家族の役に立ちたいと思ったからですが、なぜヴィトーが撃たれたかというと、タッタリア・ファミリーからの「手を組んで麻薬取引をやらないか」という申し出を断ったからです。なぜ断ったか。「麻薬は家族を滅ぼすから(ヴィトー)」です。
長男ソニー(ジェームズ・カーン)が殺されたのは、コニーが旦那から暴力を振るわれていて助けに行こうとしたからです。

すべての登場人物が「家族のために」行動しているのに、それがすべて裏目に出てしまい家族がバラバラになってしまう物語なのに、ホームドラマじゃないなんて絶対におかしい。

ヴィトーは、かわいい三男坊のマイケルにだけは暴力で人を動かす汚れた稼業に手を染めてほしくないと思っていました。それが、マイケルが跡目を継いだばかりか、義理・人情を重んじるヴィトーとは対照的に、マイケルは金しか信じない極悪人になってしまう。ヴィトーの思いをことごとく裏切り、偉大なる父ヴィトー・コルレオーネとは似ても似つかぬゴッドファーザーに成り下がってしまいます。


金では動かない男ヴィトー
「アメリカはいい国です」から始まる印象的なファーストシーンで、葬儀屋は娘をレイプした男たちを殺してほしいとヴィトーに依頼に来ます。
「おまえの娘は殺されたわけじゃないから痛めつけるだけで充分だ」
「私は殺してほしいと頼んでいるんです。いったいいくら払えばいいんですか!」
「俺はそんなに情けない男か⁉ おまえが俺を常日頃からゴッドファーザーと呼んでいれば頼まれなくたってそんな奴らは痛めつけてやる」
葬儀屋がかしずいて「ゴッドファーザー」とヴィトーの手にキスをすると、
「これでおまえは友人だ。頼みを聞いてやる」

金では決して動かない男ヴィトーの礎を作ったのは何だったのか、それはPARTⅡで明かされます。


パン屋がもってくる「一輪の花」
撃たれたヴィトーが入院している病院をマイケルが訪れたとき、パン屋が来ますよね。このままでは殺されるから病室を移す、おまえも手伝えと強引に手伝わされる人。あのパン屋がもってくる「一輪の花」がヴィトーという男を象徴していると思います。

パン屋だって豪勢な花束を買いたかったはずなんですよ。でも貧しいから一輪の花しか買えない。でもヴィトーは何よりも相手の気持ちを汲む男です。金なんてどうでもいい、見舞いに来てくれたことがうれしいと喜んで受け取る男なのでしょう。

しかし!

ベッドを移動させようにも花が邪魔でパン屋が手間取っていると、マイケルはあろうことかその一輪の花を奪って床に捨てるんですね。あそこにこそ父と子のスケールの違いが顕わになっていると思います。


フレドーについて口を閉ざすヴィトー
マイケルの次兄はフレドーという能無しの男ですが、そのフレドーについてヴィトーは何も語りません。腹の中では能無しと思っているんでしょうがそれだけは決して口にしない。それを口にしたら終わりだという良識をヴィトーという男はもっていました。薄汚れた仕事に手を染めながらも、人としての矜持を失わない男でした。

しかし、マイケルは『PARTⅡ』において、そのフレドーを能無し呼ばわりするばかりか、自ら殺してしまいます。

主人公はあくまでもマイケルですが、マイケルを通してヴィトーという男の偉大さがどんどん浮き彫りになっていきます。

続き
史上最高のアメリカ映画?! 『ゴッドファーザーPARTⅡ』



義理・人情の任侠映画は古いのか

久しぶりに山下耕作監督、藤純子主演の『緋牡丹博徒』を見ました。

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2年ほど前に、4作目か5作目か忘れたけど、『花札勝負』を見たとき、すごく古く感じられたんですよね。
5年くらい前に違うシリーズの『昭和残侠伝 死んで貰います』を見たときも、面白いんだけど何だか古臭い感が拭えなかったんです。

任侠映画の次に登場した、『仁義なき戦い』を嚆矢とする「実録やくざ路線」をたくさん見てきたからか、どうにも義理・人情に訴える任侠ものが古く見えたのかな、と。

思い出すのは、92年の『継承盃』ですね。

あの映画のキャッチコピーは、「いままでのやくざ映画はすべて間違いでした」というもので、これに深作欣二監督が激怒したと伝えられました。

私は、怒るなんて筋違いだと思いましたね。

だって、深作さん自身が任侠映画を否定して世に出てきたわけでしょ? 自分で旧路線を否定しながら、自分が否定されたら怒るなんて都合よすぎる、と。

映画にかぎらず、どんな世界でも、新しい世代が古い世代を否定して世の中は変革されていくのだから、大家となった自分が否定されるのもまた喜ばしいことなんじゃないかと思ったもんです。(『継承盃』の出来が悪いとかいうのはもちろん別の話)

で、このシリーズの記念すべき第1作も古臭いのかな、と思って見てみたらば…

これが実に面白いんですね。

純粋でまっすぐな想いがあり、その一方で裏切りや策謀など邪な思いがあり、それらが交錯して最後の殴り込みに至る、というほとんどの任侠映画に共通する筋立てですけど、これが本当に面白い。もう何度も見てるのに、それでもやっぱり面白い。

だから、任侠映画が古いのか否か、よくわからないんです。
『花札勝負』や『死んで貰います』が古く感じられたのは、映画そのものの古さであって、任侠の古さではなかったのかな、とも思うんですが、この問題については、『日本侠客伝』とかほかのシリーズもきちんと見返さないといけない気がします。



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