2016年05月08日

ヒッチコック/トリュフォーの『映画術』で、当時世界中に林立し始めた映画の専門学校や大学の映画学科についてトリュフォーがヒッチに質問を投げかけます。「映画作りというものは教えられるものでしょうか」。ヒッチの答えは簡潔明瞭。

「サイレント映画の作法を教えないかぎり、どんな教育も無意味だ」



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脚本:野木亜紀子
監督:佐藤信介
出演:大泉洋、有村架純、長澤まさみ
2015年 日本映画『アイアムアヒーロー』

この映画が何よりすごいのは、セリフの意味が一言も理解できなくても物語を把握でき、楽しめてしまうことですね。(ラストシーンの会話の意味がわからないと感動も薄れるかもですが)

つまり、この映画は徹頭徹尾サイレント映画の作法で作られているわけです。映像だけで語る。行動が、仕草が、表情が、血が、汗が、小道具が、すべてを説明してくれます。

この、英雄と書いてヒデオという名の気弱な男が本当の英雄(ヒーロー)になるまでを描いた映画を、私は「決定的瞬間」をどうやって見せてくれるんだろうと期待して見ていました。

①ヒデオが「君は俺が守る」をいつ誰に向けて言うのか
②いつ誰に向けて猟銃を撃つのか

①については、最初のほうだったので少々驚きました。

ゾンビ、というか、劇中の言葉を使えばZQN(ゾキュン)の出現で大混乱になった街中で偶然知り合った女子高生・有村架純と富士山に逃げることになります。(ゾキュンは空気の薄いところでは生きられないから、とか)

その有村架純に下心を抱くヒデオは、いとも簡単に「君は俺が守る」と自分の売れなかったマンガの決め台詞を言うんですが、最初は「え、ここで言っちゃっていいの?」と思いました。
が、よく考えればそれでいいんですよね。まだまだあの場面でのヒデオはヒーローになる覚悟も何もないただの負け犬ですから。マンガ原稿の「君は俺が守る」は、ますます「あー俺はダメだ」と自己嫌悪に陥らせるための伏線だったんですね。うまい。

ならば、ヒデオがヒーローになる覚悟を決める場面はどこかといえば、富士山中のショッピングモールで知り合ったヤブというあだ名の長澤まさみに「助けて!」と電話で言われて「いまから助けに行く!」と答え、それまで逃げてばかりいたヒデオがついに戦いの場に身を投じるわけですが、「え、君は俺が守るは言わないの?」と思いました。

が、それでいいのでした。これはサイレント映画の作法で作られているのだから、セリフの意味がわからないと面白味が伝わらないのではダメなんです。だからただ「助けに行く」でいい。



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さて、決定的瞬間の二つ目「いつ誰に向けて猟銃を撃つのか」ですが、これもかなり工夫が凝らされていました。というか、いつヒデオが引き金を引くのか、という作劇術的サスペンスのほうが、彼らは生き延びられるのか、という物語的サスペンスよりも強かったですからね。

まず、ヒデオは趣味で猟銃をもっている。それをもって奥さんに家を追い出されるんですが、その奥さんがまずゾキュンになります。まさかここでは撃つまいと思ってました。それじゃもうずっと撃ちまくるしかないですもんね。

街中で知り合った有村架純と一緒にタクシーに乗ると、偶然一緒に乗った政治家・風間トオルがゾキュンに変貌。運ちゃんも噛まれてゾキュンに。ここで撃つのか? でもまだ序盤だぞ。と思ったら、ここでも撃たない。よかった。

すると、有村架純がゾキュンになっちゃうんですよね。まさか、と思いましたが、首に噛まれた痕がある。この傷痕の設定が絶妙でして、赤ん坊に噛まれたらしいんですね。母乳を介して感染するとしたらその赤ん坊もゾキュン。だとしたら自分もゾキュンだと。しかし、間接感染だから彼女だけ完全にゾキュンにならない。ゾキュンだけどゾキュンじゃないという微妙な存在になります。他のゾキュンからヒデオを守ってくれたり。

だからヒデオはここでも撃ちません。ならば、いつ撃つのか。

ヒデオは、有村架純を連れて富士山を登っていくのですが、別に置き去りにしたくないという理由だけではなかったでしょう。この子が俺を守ってくれる、という計算もあったはず。

そして、くだんのショッピングモール。そこではたくさんの人間がゾキュンと戦っていました。

しかも、そこではゾキュンだけでなく「俺が法律だ」と豪語する吉沢悠というボスに殺される可能性もある。この人間同士の殺し合いは面白かったですね。身内にも敵がいる。そして吉沢の手下たちは有村架純を犯そうとする。

ここか! ここでとうとう撃つのか!?

と期待したんですが、ここでも撃たない。そればかりか猟銃を奪われる。どこまでも情けない。

ところがこの展開のおかげで、いつ撃つかというサスペンスががぜん面白くなるんですよね。というか、どうやって猟銃を取り返すか、というサスペンスに置き換わる。

主人公ヒデオが「いつか誰かを撃つ」のは明確です。そうでなければ少しも面白くない。この映画では簡単に撃たせない。引っ張りに引っ張る。その作劇術的サスペンスが、ヒデオのダメ男っぷりをさらに大きくする。つまり、ついに発砲する瞬間へのハードルをどんどん上げている。志の高い作劇です。発砲するときのヒデオのヒーローっぷりが上がりますから。

さて、他の勝手な連中にこき使われ、みんな戦って死んでいくのに自分だけ何もできず、独りロッカーに隠れるという情けない主人公ヒデオが、長澤まさみからかかってきた電話でヒーローとして覚醒するんですが、その直前の、ロッカーから出たらすぐゾキュンに噛まれるという妄想につぐ妄想が面白い。

しかし、長澤まさみの言葉によって主人公が覚醒するというのはどうなんでしょう? サイレント映画云々は別にしても、「映画」として、主人公の行動の契機がセリフというのにはちょっとガッカリしたのも事実です。

でも、ゾキュンになって長澤まさみをレイプしようとした吉沢悠に向けてついに最初の発砲! 「は~い」という掛け声が最高で、ついにこの瞬間が来たかという感動がありました。
その発砲によって覚醒したヒデオは撃ちまくるんですが、覚醒してしまったヒーローというのは無敵ですね。「地上7メートルのセーフティフィールド」でさえ一瞬で地獄にしてしまった元走り高跳び選手のラスボス・ゾキュンでさえ、何度もやられそうになりながら最後の一発で射殺ですからね。


しかし、長澤まさみといえば…


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ヤブというあだ名は、看護婦なのにゾキュンも人間もみんな置き去りにしたから藪医者のヤブなんですが、『アイアムアヒーロー』というタイトルはヤブのテーマでもあると思ってました。彼女もまたヒデオと同様ヒーローとして覚醒するんだろうと。でも、何かただの添え物になってしまった感が強いですね。ヤブはヒデオの覚醒を促しただけで他には何もしていない。もったいない。まぁ有村架純を決して置き去りにせず、おんぶしてヒデオのところまで行こうとはしますが、もひとつキャラクターが活かしきれてない憾みが残ります。

有村架純の半ゾキュンという設定も、もう少しドラマに絡めてほしかったし。

とはいえ、そういう不満も含めてあばたもえくぼ。

ヒーロー覚醒の瞬間を描いたこの映画が大好きです!







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2016年05月07日

横山秀夫氏の原作は未読ですし(『半落ち』『動機』など数冊読んでますが好きになれないものばかりなのでもう読まないと思います)NHKで連ドラ化された作品もどういう理由だったか見逃してしまいまして、実はこれが『64 ロクヨン』初体験。

最近の日本映画は前後編ものが多く、若者向け恋愛ものだけでやってくれるぶんには別にかまわんのですけど、ついにこういう大人向けのものにまで病魔が忍び寄ってしまったんですね。よっぽど抗議の意味もこめて見に行くのやめようかと思ったんですが、誘惑に抗うことができず、見てきちゃいました。


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いやぁ~、めちゃくちゃ面白かったですね。見に行ってよかった! そりゃまだ半分しか終わってないんだから全体の評価なんてできませんが、この前編だけ見るならもう100点満点の300点あげたいくらいで、満腹すぎてどうしようってな大傑作でございました。

たった7日間しかなかった昭和64年に起きた誘拐事件≪通称ロクヨン≫。天皇崩御の大ニュースのためほとんど報じられることもなく忘れられた事件が14年後に息を吹き返す。

その事件とはまったく関係ないひとつの交通事故で加害者を匿名報道にするか実名報道にするかで記者クラブと一悶着起こす群馬県警広報官を演じる佐藤浩市が主役です。

ロクヨンの背後で何があったか、少しずつ明らかになる新事実と、佐藤浩市と記者クラブとの対立、キャリア組とノンキャリア組との対立と警察内部のさまざまな対立葛藤があってドラマは進行するのですけど、はっきり言ってこの映画、というか、この前編に関してはそのような物語がどうとか脚本がどうとか演出がどうとか、そういうことはもうどうでもいいのです。

いや、ほんとはどうでもよくなくいんだけど…いやいや、やっぱりどうでもいい。

「あのシーン」を見てしまったからには…



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記者クラブとの対立を解消するために土下座しましょうと部下たちから進言される佐藤浩市は謝罪を拒否、独りで喧嘩腰の記者たちと話をすることを選びます。

この場面の佐藤浩市の芝居がすごいんですよ。

そりゃ、それまでのドラマの組み立てが巧みで見てるほうの感情が盛り上がっているというのがまずあるし、セリフのひとつひとつだって別に佐藤浩市が考えたわけじゃない。脚本家が書いたセリフを憶えて、瀬々敬久監督の指示通りに感情を乗せて喋っているだけ。役者は台本にあるセリフを演出者の指示通りに喋る。のだけど、この場面の佐藤浩市はそういう「映画とは実はこうやって作られている」という小賢しい物言いをすべて蹴散らすほどに素晴らしいんです。

例えば『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンとか、『エイリアン2』のシガニー・ウィーバーとか、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のレオナルド・ディカプリオみたいに「映画全体を俺が一人で支えてみせる!!!」と言わんばかりの名演なんですね。ほんとに目の前に存在しているかのような圧倒的迫真性。あれは「うまい」とかそういうことじゃなく「気持ち」ですね。サッカーでもそうですが、うまいチームが勝つのではなく気迫のまさったチームが勝つんですよ。

映画に泣いたのではなく、佐藤浩市に泣かされました。

あれはすごい。あのシーンは今後語り草になると思います。

「瀬々敬久監督作品」ではなく、「横山秀夫原作作品」でもなく、「佐藤浩市主演作品」として、この『64 ロクヨン(前編)』は後世に語り継がれていくべき映画です。

すごかった。本当にすごかった。思い出しただけでまだ膝が震えます。






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2016年05月05日

光文社古典新訳文庫からプラトンの著作が刊行され始めてからもうだいぶ経つというのに、いままで一冊も読んでなかった。不勉強を恥じます。

さて、まず最初に読んだのは『メノン 徳(アレテー)について』という、プラトン初期の著作です。



「徳(アレテー)は教えることができるか」と問う若造メノンに対して、「無知の知」の看板を掲げるソクラテスが「そもそも徳(アレテー)とは何か」と問い返すところからこの問答は始まります。

というか、メノンとソクラテスが最終的にどういうところへ着地するかは、プラトンの本文と、翻訳者・渡辺邦夫さんの懇切丁寧な解説、つまり280ページ余の本書を通読すればそれなりにわかります。

というか、ここで語られていることを私が解説したり、感想を述べたりできるものではありません。あまりに深すぎるから。それ以前に難しいし。

ただ、どうしても言っておきたいのは、「探求のパラドクス」に関してソクラテスが返す言葉についてなんですね。

メノンは、そもそも最初から知らないものを探求などできはしない、とパラドクスを投げかけるんですが、それに対するソクラテスの返答が「想起説」なるもの。

これは、私たち人間は生まれる前からこの世のあらゆる知識をもって生まれてくる。しかし、生まれた瞬間に忘れてしまう。だから学ぶということは、生まれる前の記憶を想起することなのだ、というものなんです。

これ、何かに似てるなぁ、と思っていたら、アレでした。

仏像の彫り師が、木の塊から仏像を彫るとき、「仏像はこの木の塊の中に既に存在している。私の仕事はその周りの余分なものを払いのけるだけだ」と。

つまり、木を彫って仏像を作り上げるのではなく、仏像という作品は既に存在していて、その存在を「発見」してやるだけだ、ということですね。創造とはそういうものなのだ、というとても奥深く、ありがたいお話。

ソクラテスの「想起説」というのも同じだと思うんです。探求すべき知識はすでに全部もっている。内なる知識を発見するだけだ、と。

古代の哲学者と、いつの時代か知りませんが仏像の彫り師がまったく同じことを言っていることに大いに感動した次第です。

おそらく、これは人生におけるあらゆることに通じるオールマイティな考え方なのかもしれません。

プラトンの他の著作も読んでさらに勉強を深めたいと思います。





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