聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『私家版・ユダヤ文化論』に学ぶ逆説の感情

内田樹先生の『私家版・ユダヤ文化論』を久しぶりに読み返しました。



もっと読みやすい本だった印象があるんですが、ものすごくわかりにくい。他の内田先生の本がわかりやすいのでこれも読みやすくてわかりやすいという記憶が捏造されていたようです。

このあまりに独創的なユダヤ文化論は、内田先生によると「ユダヤ人が読んでもわかるように書いたから日本人が読んでもわかりにくいだろう」ということらしく、うん、やっぱりわかりにくい。というか読みにくい。

そういうことはほとんどどうでもいいことなんですが、この本の最大の肝は、

「反ユダヤ主義者は、実はユダヤ人をどうしようもなく愛している」

というところなんですよね。

ここで内田先生は、フロイトの「まちがい」を指摘してそこを迂回することにより「反ユダヤ主義者はユダヤ人を愛しているがゆえに、その愛を高めようとしてユダヤ人を憎むのだ」という驚愕の結論に導いていきます。

そこらへんのアクロバティックな理路については、実際にこの本を読んで体験してみてください。ユダヤ人にとって時間は未来から過去へ流れているとか、目から鱗の論考がびっしりです。

さて、問題の「愛しているがゆえに憎しみが要請される」という精神分析にはどうにも身につまされるんですよね。

私は昔から「プライドが高い」と言われ、一方で「劣等感が強い」と言われてきました。

その二つって相反するものなのにどうして?と思ってたんです。でも、周りにもプライドが高いがゆえに劣等感が強い人がたくさんいる。というか、プライドが高い人はほぼ100%劣等感に苛まれている。

この『私家版・ユダヤ文化論』を読んで腑に落ちました。

自己を愛する気持ちが強いために、その愛を高めようと、愛と葛藤する憎しみが要請されるんですね。自己愛が激しいからこそ自己憎悪も激しくなる。

じゃあどうすればいいのかというと、自己愛を高めるための自己憎悪をやめる、あるいは、その量を少なくすることが必要かと思われますが、それって「自分を好きになること」で、結局、自己愛がさらに高まるだけでは?

いや、「自己愛」と「自分が好き」というのは違うんでしょうか。

うーん、「わかった!」と思ったら、ますますわからなくなってきました。とりあえず日向ぼっこでもしましょう。



オールマン・ブラザーズ・バンド「ウィッピング・ポスト」in『アット・フィルモア・イースト』

ある人の強い勧めで、オールマン・ブラザーズ・バンドという私はまったく聞いたことのないバンドの最も有名かつすぐれたアルバムを購入しました。

『アット・フィルモア・イースト』

一曲目から静かでいながら力強さを感じさせるブルースが続きます。しかも一曲一曲が長いのですよ。5分ぐらいの曲もあるにはあるけど、20分ぐらいの曲もあったり、何だかそのへんはブルースロックというよりはプログレみたい。

最初から最後まで静かなこのアルバム、聴けば聴くほどに味があります。

ライナーノーツによると、このバンドは「ライブ・バンド」としての評価が非常に高いわりにレコードの評価が低く、レコードでもいいものが作れることを証明するために、フィルモア・イーストというスタジオで開いたライブを録音したそうです。
しかし、それじゃあ結局ライブ・バンドとしての評価がさらに高まっただけなんじゃないの? と思うのは私だけでしょうか。ライブじゃなくて完全に録音のために演奏しないとそのへんの評価は覆らない気がしますが。

ま、そのへんの事情はできあがった音楽とはまったく関係ないわけで、私は特に最後の7曲目「ウィッピング・ポスト」というのが大好きです。長いです。

秋の夜長にぜひお聴きください。







『スターシップ・トゥルーパーズ』(最後のキスシーンはなぜカットされたのか)

むやみやたらと理屈ぬきに面白い映画を見たい衝動に駆られたので、ポール・バーホーベン監督による1997年作品『スターシップ・トゥルーパーズ』を見ました。


pict02_off

やはり何度見ても面白い!!!

物語を要約すると、
「高校卒業後、好きな女のあとを追いかけて軍を志願した主人公が、異星生命体との戦闘を経て地球市民としての自覚と誇りに目覚める」となりましょうか。

何だかできあがった映画とはぜんぜん違う趣のあらすじですが、これで間違いないでしょう。というか、ここにこそこの映画が多くの人に支持され続ける理由があると思うのです。

ポール・バーホーベン監督らしく、エロいシーンが満載のこの映画、男と女が同じシャワールームを使って一緒にシャワーを浴びるとか、部屋も男女別に分かれてないとか、いろいろ現実とは隔絶したエロい設定が満載で、しかも、出てる女優さんが美人のうえに巨乳だったりするからどうしても「異星生命体との死闘を通して市民として覚醒する主人公」という物語の本質が見えにくくなっています。

でも、だからこそこの映画は製作から20年近くを経たいまでも命脈を保っているのではないでしょうか。

この映画を駆動する仕掛けは実に古典的なものです。

・三角関係を軸にした恋愛感情
・親子の確執(父親は抑圧的な父性の持ち主で、母親は子を心配する母性の持ち主)
・軍人として頭角を現すも一度の失敗で退役志願
・が、両親の住む故郷が異星生命体に侵略されたと知り、再び軍人として戦いの渦中に身を投じる。
・最初は主人公を敵視していた同僚との最終的な友情の成立
・分隊長への抜擢、降格、伍長への昇格と、浮き沈みの激しい出世競争

こう書くと、やっぱり何か「古い」んですよね。古いといって悪ければ「古典的」。人間の原始的な欲望は観客にとってわかりやすいものではありますが、あまりに古典的な仕掛けと流れなので、別の何かでその古さを隠してしまわないといけない…監督ポール・バーホーベンと脚本のエド・ニューマイヤーはそう考えたに違いありません。

それが、エロシーン満載につながったと思うのですよね。もちろん、彼らの趣味なんでしょうけど、自分たちの趣味を全面的に出せば映画全体を覆い尽くす古典的な体質を隠すことができるという直観はあったはずです。(しかもエロもまた人間の原始的欲望ですから観客の誰もが楽しむことができます)

しかし、ここでひとつの疑問が生じます。

バーホーベンの証言では、ラストシーンとして主人公リコと元恋人カルメンのキスシーンを撮影しながら最終的にカットしたらしいのですが、これがなぜなのか、ということです。

リコとカルメンは映画の冒頭からすでに恋仲なのですが、ここにリコに横恋慕するディズという女性がいます。リコは入隊するカルメンを追って軍隊を志願しますが、ディズもリコを追って同じ分隊にやってきます。
カルメンは軍人の家系出身で入隊当初から機動歩兵のリコやディズとは違う士官のため、結果的にリコは振られ、ディズと恋仲になります。
しかしそのディズが戦闘中に殺されてしまい、カルメンも重傷を負うのですが命だけはとりとめ、敵の親玉を捕獲したあとリコとカルメンは一緒に喜びを分かち合います。
そして、もとの脚本どおりならリコとカルメンのキスシーンで大団円となるはずだったのです。

しかし、バーホーベンはそうしなかった。
二人の愛情の再燃をカットし、後日譚と再び戦闘に身を投じる主人公を活写するだけの道を選びました。なぜでしょうか。

『スターシップ・トゥルーパーズ』と同じ年に製作されたアメリカ映画で『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画がありました。
ブラッド・ピット演じる主人公が、夫婦喧嘩の末にチベットへ行って7年間過ごし、帰ってきてから奥さんと和解するという「壮大な夫婦喧嘩」を描いた珍作でした。

どうしても、最初に夫婦喧嘩があり最後にその和解があると、チベットでの7年間が夫婦和解のための時間だった、というふうにしか見えないんですよね。

『スターシップ・トゥルーパーズ』でも同じことが起きるとバーホーベンは判断したと思われます。
つまり、リコとカルメンは一度破局した。その二人が最後でよりを戻すとなると、激しい戦闘が二人の仲をもう一度結ぶための触媒にしかならない。そうではなくとも観客の目にはそう見えてしまう。

あくまでもこの映画の物語は「高校卒業後、好きな女のあとを追いかけて軍を志願した主人公が、異星生命体との戦闘を経て地球市民としての自覚と誇りに目覚める」というものです。好きな女とよりを戻してハッピーエンドでは「女を求めた主人公が戦いに身を投じることでヒーローになる」という古典的な物語構造が破壊されると踏んだのでしょう。

ここにポール・バーホーベンの異才を感じます。

古典的すぎる劇構造を隠すためにエロシーン満載のテイストにしたはずなのに、最後の最後で自分の趣味を封じ、古典的英雄譚の凱歌をあげることを選択する。まことに正しい選択。賢い選択。そして勇気ある選択です。

CGの多用によって全体的にのっぺりした映像はいま現在でもとても先鋭で斬新です。けれど物語自体には古典の味を決して忘れない。趣味は入れるけれど、最終的に趣味は封じる。

エド・ニューマイヤーの脚本に当初書かれていた最後のキスシーンをカットしたポール・バーホーベンは、やはり超一流の映画監督だと思います。



最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード