聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!

1971年製作『ダーティハリー』は泣く子も黙る名作として知られていますが、私もご多分に漏れず大好きでして。


「わからない」というセリフ
主人公のハリー・キャラハンは、新しくタッグを組むことになった相棒のチコとともに連続射殺魔「さそり座の男」を追い詰めていきます。で、その過程でチコが撃たれて入院する。
ハリーが見舞いに行くと、婚約者がチコの看病をしている。チコは、刑事を辞めたい、教師の資格をもってるからそっちで生計を立てていく、と言います。

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婚約者に見送られるハリーは、「君たちには無理だ。辞めたほうがいい」と理解を示すのですが、チコの婚約者が「じゃあ、あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊きます。
そのとき主人公ハリーは「I don't know」と答えるんですね。そのあとも何か一言言ってますがよく聞き取れません。日本語字幕ではすべてひっくるめて「さてね、わからんよ」とだけ訳されてますが、私がこの映画を見ていつも引っかかるのがこの「I don't know」なのです。


「わからない」の理由は?
大きく二つ考えられます。

①本当にわからないから「わからない」と答えている。
②わかりすぎるほどわかっているけど、あえて「わからない」と答えている。

①は論外です。理由は誰の目にも明らか。

では、②はどうでしょうか。
可能性としては充分あると思いますね。

悪を憎む正義感を人一倍もっているからこそ自分は刑事としてしか生きられない。そういう自覚をハリー・キャラハンという男はもっていると思います。さらに、チコの婚約者との会話で明らかになるのは、ハリーにはつい最近まで奥さんがいたが交通事故で死んでしまったこと。

チコは、最初はハリーに「学士の刑事か。出世するぜ。死ななきゃな」と反感を抱かれていました。「俺の相棒は入院するか死ぬかだ」と言われても「だから?」と即答するほど肝っ玉もある。そんなチコが刑事を辞めるのは、ひとえに婚約者のため。自分が死ねば悲しむ人がいるからです。

ハリーにはもうそんな人はいない。しかも「学士の刑事か」というセリフから察せられるのは、彼にはろくな学歴がない。チコのように教師の資格をもっていて他の職業で口に糊していくこともできない。

だから、「なぜ刑事をやっているの?」と問われたとき、その理由がわかっているのに「わからない」と答えるのでしょう。チコが羨ましいけどそれは言えない、という男としての矜持もあったことは想像に難くありません。


新しい可能性
でも、本当にそれだけなんでしょうか? それだけならあのセリフにこんなに引っかかるだろうか? 
①と②とは別の新たな可能性はないだろうか、と考えたところ、新しい可能性に思い当たりました。

③無意識ではわかっているが意識の上ではわかっていないので「わからない」と答えている。

ハリーは前述のとおり正義感に溢れた刑事です。しかしちょっとその正義感が行き過ぎている。

令状なしで容疑者の家に押し入るというのは刑事サスペンスではよくあります。別にハリー・キャラハンの専売特許ではありません。
しかし、丸腰の容疑者を撃ち、さらに傷口を足で踏みつけるなどというサディスティックな一面は、ハリー・キャラハンという男に特有のものです。

彼は自分が正義感に溢れていることを充分自覚していますが、それが行き過ぎて犯罪者をリンチにかけることに少しも心の痛みを感じないことにはおそらく無自覚です。

凶悪犯を逮捕するのが自分の仕事だから、という自覚以上に、凶悪犯を血祭りにしたいという無意識の欲望には無自覚だから「わからない」という言葉が出てきたのではないか。


本当の理由はこれだ!
と、ここまで考えてきて、はたと思い当りました。4番目の理由に。そして、それこそが本当の理由なのではないか。

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70年代初頭、凶悪事件が頻発するアメリカで、異常者はすべて処刑してしまえ! という一般大衆の無意識の願望が作り上げたのが、異常なまでに正義感が肥大化した主人公ハリー・キャラハン。

『フレンチ・コネクション』しかり、『狼よさらば』しかり、あの頃のアメリカ映画には似たような主人公が描かれていました。

脚本家チームは、凶悪犯を血祭りにしたいという一般大衆の無意識的欲望を具現化してハリー・キャラハンというキャラクターを造形したと思われます。一般大衆といえば聞こえがいいですが、それは無論、脚本家たち自身のことです。自分たちの欲望をハリー・キャラハンという主人公に託したのです。

とはいえ、いくらフィクションの登場人物とはいえ、いったん生きた人間として生み出された以上、ハリー・キャラハンはハリー・キャラハン一個人として行動しなくてはなりません。

かつて黒沢清監督は「映画作りとは、映画の原理と世界の原理とのせめぎ合いのことだ」と看破しました。ここでいう「映画の原理」とは「強盗は強盗する、人殺しは殺す、恋人は恋をする」という、役柄とその言動が一致する原理、つまりは作者が登場人物にこうさせたいという欲求をそのままさせてしまうことです。

対して世界の原理とは「強盗だってそんなに簡単に強盗するわけではないし、人殺しだって殺してばっかりいるわけではない」という現実の原理のことですね。いくら作者がそうさせたくても、いったん生み出されたキャラクターである以上、作者の欲求よりキャラクターの欲求こそ優先されなければなりません。

『ダーティハリー』の脚本家たちも、そのせめぎ合いに苦しんだのでしょう。ハリー・キャラハンの言動に自分たちの欲望を乗せようとしているなど微塵も感じさせないほどキャラクターが立っているのですが、「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、そのせめぎ合いが絶頂に達したと思われます。

そして、「わからない」というセリフは、映画の原理が世界の原理に敗北した結果だったのではないか。

つまり、ハリー個人は異常犯罪者を血祭りにしたいことには自覚的なのです。なぜなら、映画冒頭の市長と相対するシーンで「男が裸で女を追いかけてたら、まさか共同募金じゃないでしょう」とウィットに富んだセリフを言います。自覚しているからこそ言える言葉です。
しかし、だからといって射殺する必要があったのか、というのが世界の原理に属する市長の言い分であり、実際、「屁理屈だ」と市長は吐き捨てるように言いますね。

だから、「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、「刑事なら合法的に悪人を殺せるからね」と(脚本家たちの)本音を冗談っぽく言ったとしても不思議ではありません。それが『ダーティハリー』という映画の原理のはずです。市長相手に屁理屈こねられる人間ならそれぐらい簡単です。なのに「わからない」とあえて答えるのは、「異常者を血祭りにしてやりたい」というハリーの本音は、実は自分たち脚本家チームの本音であるがゆえに、それを隠そうという無意識が働いたのではないか。

あの「わからない」は、ハリー・キャラハンその人の言葉ではなく、脚本家たち自身の声だったんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?

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『早春スケッチブック』で耳が痛くなった件(二つ目)

ここんところ山田太一さんの『早春スケッチブック』を見ることで、とてつもなくやりきれない思いを強いられているのですが、昨日の日記『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)で書くの忘れてたことをつらつらと。

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山崎努演じる「ありきたりが大嫌いな男」は、カメラマンで一時代を築いた人間で、初めて会う18歳の息子・鶴見辰吾に焚き火をしながらこんなことを言います。

「こうやって枯れ枝を見つけると、どの角度から撮るか、光の具合は、寄るか引くか、そんなことばかり考える。そして撮る。撮ってしまえばもう枯れ枝のことなんか忘れてる。次の獲物を探してる。いつの間にか、ひとつの物事をじっと見つめられない人間になっていることに気づく。人を、街を、花を、自分は少しも見つめていない」

これまた私のことです。

夢の実現のためにあくせくばかりしてしまって、周りの風景が目に入らない。きれいな花が咲いていても、そんなものに時間を奪われるのがいやでしょうがない。

山崎努のように「獲物」にしか興味がない。その獲物を表現してしまったらもう興味を失ってしまう。

そして、いつの間にか、自分にしか興味がない人間になってしまいました。

岩下志麻のあのセリフがまた脳裏に甦ります。

「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」

全否定されてしまいました。

吉田喜重監督の著作に、『自己否定の論理 想像力による変身』ってのがありましたが、私がここから新たに飛翔するためには、これまでの自分を自分で全否定せねばならないのでしょう。

誰かにしてもらうのではなく、フィクションにしてもらうのでもなく、自分の手で。

それができれば…道は開けるでしょうか。



山田太一『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)

山田太一さんの1983年作品『早春スケッチブック』全12話を再見しました。

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物語は、母と息子、父と娘がそれぞれ血がつながっている、つまり連れ子がある者同士が再婚した家庭があって、あるとき息子の実の父親が乱入してきて、危ういバランスで成り立っている家庭にさらなる亀裂が入る、というものです。

しかし、ここで物語の内容などどうでもいいのです。

第1話からそうでしたが、最終回などは最初から最後まで涙、涙、涙で、画面がかすんでしまいました。

乱入してくる息子の実の父親というのが山崎努演じるカメラマンなんですが、

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これが、まるで自分の醜い肖像画を見せられているようで身につまされるのです。

山崎努は言います。

「いい学校に入って、いい会社に入る、そんなことはくだらないことだ。おまえらは骨の髄までありきたりだ!!!」と。

私もそういうふうに考えていました。毎朝満員電車に揺られて会社へ行き、笑顔を作ってヘイコラするような人間にだけはなりたくない、と。

もっとはっきり言えば、山崎努のように「自分は特別な人間なのだ」と思っていました。さぞかし鼻持ちならない奴だったと思います。

山崎努の昔の女である岩下志麻は言います。

「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」

まさに私のことです。だから身につまされるのです。慚愧の念に堪えんのです。涙があふれてどうしようもないのです。

ただ後悔、後悔、後悔…それだけです。

最終回、死の病に侵された山崎努は子どもたちにこう言います。

「こないだ君たちのお父さんがここへ訪ねてきてね、会社とお得意さんと二回電話をしてったよ。声を使い分けてね。部下には強い口調で、お得意さんには高い声で愛想よく…そうやって君たち二人を育ててきたんだな、と思い知らされたよ」

自分は特別な人間だ、世の中の大半の連中はありきたりでつまらない人間だ、と言っていた山崎努が、そのありきたりの典型のようなどこにでもいるつまらないサラリーマンに敗北したと認めるのです。

私も認めます。いや、自分に認めさせるために再見したのかもしれません。

私は長い間追い続けた夢を断念しました。だからよけい身につまされました。

でも、それでも、まだ私は自分のことを特別な人間と思っていたのでしょう。何者でもないくせに何者であるかのような顔をしている。

そんな自分に「おまえは何者でもないんだ」と言い聞かせるために、この、見るのがつらいとしか言いようのないドラマをわざわざ見たのだと思います。

おそらく脚本の山田太一さんは山崎努と河原崎長一郎のどちらにも肩入れしてないのでしょう。山崎努は敗北したけど、河原崎長一郎のほうだって最後は歩み寄った。どちらも勝者でどちらも敗者。

でも、これまでずっと河原崎長一郎のような人を蔑んでいた私のような者には、このドラマは敗北でしかありません。いや、ほとんど死刑宣告のようなものです。

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