聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ジダン新監督はレアルを変えられるか!?

ついにレアル・マドリードのベニテス監督が解任され、ジダン新監督が誕生しました。

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会長が変わらないかぎりこのチームは変わらないという意見はその通りだと思うし、ジダンが切られる日が目に見えるようで辛かったりもしますが、ここではそういう背景を一切無視して、純粋にジダンが監督としていまのチームを生まれ変わらせられるかということに絞って考えたいと思います。

まずは、選手として偉大な人なので、スーパースターたちも聞く耳をちゃんともつでしょう。前々監督のアンチェロッティの右腕としてチームに帯同していたからよけいにね。それに下部組織の監督をやっていたわけだから、生え抜きの若手のこともよく知ってるのはいいですよね。

それと、フランス人ということでこのところ試合に出れてないバランを重用してくれるのではないかという期待もあります。もともとバランはジダンが連れてきた選手ですし。
ペペもセルヒオ・ラモスもいい選手ですが、やはり、高さ、速さ、強さ、どれをとってもバランが上ではないかと。ただラインを統率するリーダーシップではセルヒオ・ラモスのほうが一日の長があると思います。とか何とか言っても、バランが先発したクラシコは大敗したんですけどね。
それでもやっぱりセンターバックは、バランとセルヒオ・ラモスのコンビをファーストチョイスにしてほしいです。

いまのところジダンのチーム作りに関する発言は「BBCの3トップを起用する」というものだけですが、これは文字通り「3トップ」という意味なのか、それとも「BBCの3人を同時起用する」という意味なのかはわかりません。

私は前から言っているように、ワンボランチの4-3-3より、ダブルボランチ&5人の中盤でしっかり守って速攻するため4-2-3-1のほうが同じメンバーでもずっといいと思っているので、3トップという意味なら幻滅ですが、しかし、アンチェロッティの弟子であるジダンは4-3-3を継承するのか、それとも、「アンチェロッティが解任されたのは無冠に終わったから、なぜ無冠に終わったかといえば失点が多かったから、なぜ失点が多かったかといえば…」と考えてくれるでしょうか。
そこを考えれば4-3-3は危険なはずなんですが、どうなんでしょう?

師匠アンチェロッティを盲信するとは信じたくありません。シャビ・アロンソやブスケツのような純正4番がいないと4-3-3は機能しないことは、ジダンならわかってるんじゃないかと期待します。いや、もう期待するしかありません。これはもう祈りです。

神様、仏様、ジダン様。

に、なれるかどうか、答えはもうすぐ5月には出ます。じっくり見守りたいと思います。



『機械仕掛けの愛』(「心」と「機能」はどう違うのか)

『自虐の詩』で知られる業田良家さんの連作短編集『機械仕掛けの愛』(小学館)。いま出ている3巻まで読みました。

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どれもこれも面白いんですが、厳選して3篇だけご紹介します。

①『罪と罰の匣』
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ドストエフスキーを「人間の愚かさを描いた笑える小説」と看破する警察ロボットが主人公なんですが、突然ある日彼が逮捕されてしまう。

容疑は偽札作り。貧しい人たちのために偽札を刷っていたのだと。「お金持ちは困るでしょう。でも貧しい人たちは救われます。法律を犯しましたが、間違ったことをしたとは思わない」と言い放つ彼は、虫ロボットにされてしまう。メモリーだけ腹に差して。彼の上司だった男がドストエフスキーの文庫本を差し入れてやって、「私には愛すべき部下がいた」と涙を流す場面で終わる。


②『ロボット心中』
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ある男が人間の女ではなく、女型ロボットと結婚すると言い出して周囲は猛反対。それを押し切って結婚するも、周りから奇異の目で見られて何もかも嫌になった男は「俺と心中しよう」と妻に言う。が、妻ロボットは「私に愛情はありません。ただ機能があるだけです」と心中を拒否。
絶望する男にニュースが届けられる。妻ロボットが別の男型ロボットと心中したと。やっぱりロボットはロボット同士がいいのかと思いきや、おそらく「偽装心中」だろうと結論される。男型ロボットの持ち主の女性も心中を迫っていたらしい。主人の命を守るため二体のロボットは示し合わせて偽装心中したと思われる。そんなプログラミングはしてないのに、主人の命を守ることという機能をまっとうした結果、命懸けで主人を守るという行為に出たのだと。

「機能」だって何だっていい、これ以上の「愛情」が他にあるか。と男は声に出さずに言う。


③『丘の上の阿呆』
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極度の監視社会に生きる男の物語。

体制派と反体制派のどちらもが自分たちの仲間を監視し、裏切り、密告、処刑に明け暮れる毎日。
主人公は、阿呆を装って生きている。そのほうがどちらにつかずにいても笑われるだけですむと。そして、殺された人たちを葬り、花を添えることを自らの責務と考えている。「阿呆のほうが人としてやるべきことをやれる。狂った世の中さ」とネコ型監視ロボットに語る。

そんな彼が、「ああいうどっちつかずが一番ムカつく」と突然殺される。ネコ型ロボットはすでにメモリーを書き換えられており、自分の使命が監視であることを知らない。殺された阿呆を見ながら「俺はいま何をしなければならないのか」と考えた末に、花を一輪ずつ摘んできて阿呆の死体を飾ってやるのだった。

「心」とは何ぞや? 人間とロボットの違いは何ぞや。

人間は心があるが、ロボットにはない。本当にそうだろうか?

ロボットの「機能」と人間の「心」ってひょっとして同じではないのか、人間も神が造ったロボットにすぎないのかも…というのがこの連作短編集に通底する思想・哲学ですね。

言葉では言えない何かがこの3冊のマンガには詰まっています。

はたして、ロボットは言葉では言えない何かを理解することはできるのでしょうか。

第3巻の最後『ロゴスの花』という作品では、ある言葉を繰り返し唱えるようプログラムされたロボットが、自分自身が唱える言葉によってプログラムにない行動に出る姿が描かれます。

言葉によって機能が変わる。言葉によって心が変わる。

ならば、言葉では言えない大切なことをロボットが理解できる日も…?

第4巻ではそのあたりを読みたいですが、どんな傑作が待ってるんでしょう。



『007/スペクター』(「殺しのライセンス」をめぐる思想について)

一年の初めのブログがはたしてこの映画の感想でいいのか。しかも、今年見たんじゃなくて去年見た映画の感想でいいのか。さらに、もう1週間近く前に見たんだけど。

まぁいいでしょう。ブログにルールなどありません。

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マーティン・キャンベル監督作品『カジノ・ロワイヤル』で幕を開けたダニエル・クレイグ・ボンドシリーズ。『カジノ・ロワイヤル』はすごく面白かったですが、『慰めの報酬』『スカイ・フォール』『スペクター』とどんどんつまらなくなるので見ていてつらかったです。

何よりも、クリストフ・ヴァルツ演じる悪の組織スペクターの親玉にあまりに魅力がない。というか、あれ、ただのアホでしょう。

最初、ほとんど音のしない大きな暗い部屋に登場してボンドが隠れていることを察知するところなど「おお~、ついに出てきたぞ、スペクターの親玉が!」ってな感じでやたら興奮しましたが、あまりに頭悪すぎ。簡単に砂漠のアジトを爆破されるし、最後はすぐ逃げればいいものを逃げないがために爆発に巻き込まれて…と。しかも自分が仕掛けた爆弾でですよ。アホらしくて付き合ってられません。

クリストフ・ヴァルツという役者さんはとても聡明な人だから、こんなアホな役は手抜きで大丈夫と思ったんじゃないでしょうか。『イングロリアス・バスターズ』『ジャンゴ 繋がれざる者』あるいは『おとなのけんか』なんかとはまったく別人。ほとんど二流役者に見えるぐらい愚昧な芝居に終始しています。

と、ここまでは些末な問題。もっと大きな問題は、「殺しのライセンス」に対する「思想」ですね。

この映画は、スペクターが合法的に各国のスパイ組織を解体して世界を牛耳ろうとするんだけれどもそれをジェームズ・ボンドはじめMI6の有志たちが未然に防ぐ、という物語なんですが、スペクターの傀儡であるCが「殺しのライセンスなどもう古い」とダブルオーのライセンスを失効させ、さらにMI6そのものをも解体しようとする。それに対抗してレイフ・ファインズMが、

「殺しのライセンスは、殺さないライセンスでもある」

と言うんですね。このセリフ自体は「なるほど、それは言い得て妙だ」と思ったんです。「一口に殺しのライセンスといっても、そのために情報を収集し、潜入し、そして引き金を引く瞬間に相手の目を見て撃つべきか否かを判断するんだ」と。ダブルオーはただの殺し屋じゃない、みたいなことを言うんですが、それはそれで感動したんですよ。

でもね、最後に引き金さえ引いてしまえばスペクターの親玉を殺せるという段になって、クレイグ・ボンドは撃つのをやめるんですね。レイフ・ファインズMの言った「殺さないライセンス」を実証して見せるんですが、何というか、テーマが先走ってる感じがするんですよ。

映画は思想を伝えるための道具ではありません。しかしこれは、思想を伝えてはいけないと言っているのではありません。思想のない映画に価値はありません。

しかしながら、あるテーマがあって、それを言いたいがために物語がある、というのは順番が違います。

あるキャラクターなり、あるシチュエーションなりがあって、それらが展開していくとあるテーマが浮かび上がってくるというのが本当でしょう。

レイフ・ファインズMの言い分などどうでもいいから、クレイグ・ボンドにはやはり最後でクリストフ・ヴァルツを撃ち殺してほしかった。あの男一人殺したところで問題の解決にならない、ということなんでしょうか。確かに現実世界ならそうでしょうが、これは映画です。1800円払って夢を見に来ているお客に対してそんな物分かりのいいことを説いても金返せと言われておしまいです。

もっと物語が現実世界の政治を反映したリアリズムに徹した映画ならそれでもいいですが(『ミュンヘン』とか『パラダイス・ナウ』とか)『007』というのは最初からウソ話なんだから悪の親玉を殺して一件落着という能天気な結末でいいと思うんですがねぇ。

親玉を殺したところで問題は解決しないと誰もが知っているからこそ、「親玉を殺せばすべて解決」という映画の需要って絶対あると思うんです。

『007』はまさしくそういう需要に応えるべきシリーズだと思っていたので、とっても残念です。



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