聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『バードマン(あるいは無知という名の予期せぬ奇跡)』(マスターショットのないわけは?)

アカデミー賞受賞作、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督『バードマン(あるいは無知という名の予期せぬ奇跡)』を見てきました。

ウディ・アレンの『マジック・イン・ムーンライト』と2本立てだったんですが、『マジック~』はいやになるくらい凡庸な作品で、敬愛するウディ・アレン作品なのに期待外れもいいところで、黙殺したい誘惑にかられますが、どちらにもエマ・ストーンが出ていていたので、二つ絡めて感想を綴りたいと思います。

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この『バードマン』、全編ワンカット(に見せてる)映画だとは聞いてました。全編ワンカットといえば、ヒッチコックの『ロープ』とかソクーロフの『エルミタージュ幻想』とか松江哲明監督の『ライブテープ』なんかがありますが、この映画はどうもそれらとはなんか違うんですよね。

上記三作品は、全編ワンカット(『ロープ』はそう見せてるだけですが『エルミタージュ幻想』と『ライブープ』は本当にワンカット)といっても、寄りがあったり引きがあったりして、ごく普通に撮られた映画のようにそれぞれのシーンが構成されていました。
でも、この『バードマン』は普通の映画に見えないんですよね。ものすごく奇矯きわまりない変てこな映画というか。

見ていて気がついたのは、この『バードマン』にはマスターショットがないんですね。皆無とは言いません。でもほとんどない。その場所がどんな場所で人物と人物がどういう位置関係にあるのかを一望のもとに見せてくれるショットがないのです。

だから、この映画と比較すべきは、『ロープ』でも『エルミタージュ幻想』でも『ライブテープ』でもなく、深川栄洋監督の『半分の月がのぼる空』だと思うんですよ。

あの傑作もまた「マスターショットのない映画」でした。常にその場所の部分しか見せてくれず、全体を一望のもとに見せてくれるショットが終盤までありませんでした。

なぜか。

プロットにある「秘密」があって、作り手はそれを観客に隠して物語が展開するのですね。常にその秘密を隠している、つまり物語の全容を見せないことと視覚的に部分しか見せないこととを連動させるという、やたら細かい演出がなされていたわけです。

では、翻って『バードマン』の「マスターショットのないわけ」は何なのでしょうか。

かつてアメコミ・ヒーローもので一世を風靡しながら完全に落ち目の役者が主人公だから、そういう閉塞感を出すための演出かな、と最初は思いました。

でも、それも何か違うんですよね。

何ていうか、私の一番嫌いな、こう撮りたいから撮っているという、監督の欲望しか見いだせないのです。こういう物語があって、いまこの場面はこういう段階、そしてこのシーンにはこういう意味がある、だからカメラはここに置く、こう動かす、そしてこうつなぐ、というのが古典的ハリウッド映画の作法だったはずですが、この『バードマン』はそれを守っていない。

いや、守らないのはいいんですよ。古典的な作法を守ってない映画なんてごまんとあります。しかしながら、「古典的な作法を自家薬籠中の物にしてそれに敬意を払いながらあえて守らない」のと「古典的な作法を軽蔑して守らない」のとでは雲泥の差があります。

イニャリトゥ監督はどうも後者だと思うんですよね。

それは物語のつまらなさにも表れています。

あの結末はいったい何ですか。主人公が舞台上で自分の鼻を撃ちぬいて、それが激辛批評家に絶賛されるってありえない。あれは夢なんでしょうか。わかりません。

ラストシーンは、窓から飛び降りたはずのマイケル・キートンを娘役のエマ・ストーンが見下ろすとどうも路上にはいないようで、空を見上げて何とも言えない笑顔を見せる(↑画像参照)。意味がわかりません。『グラン・ブルー』のようなエンディングを狙ったんでしょうか。
いずれにしても、イニャリトゥ監督は「こういう物語を語りたい」というのがないんですね。ただ全編ワンカットの映画を撮りたい。変な映画を撮って目立ちたいという醜悪な出世願望しか見て取れません。

が、それでもこの『バードマン』を否定しきれないのは、ラストのエマ・ストーンの笑顔のように、イニャリトゥ監督の演技指導がすごくうまいからなんですね。マイケル・キートンも、エドワード・ノートンも、ナオミ・ワッツも、ザック・ガリフィナーキスも、アンドレア・ライズブローも、役者はみんな素晴らしい。

俳優出身で演技指導の達人であるウディ・アレンの『マジック・イン・ムーンライト』でのエマ・ストーンも魅力的でしたが、エマ・ストーンだけを比較するなら『バードマン』のほうがいい。ウディより役者を魅力的に見せられる監督なんてそうはいません。

だから、変な撮り方をせずにもっと脚本に注力してごく普通に撮れば傑作になったんじゃないかとものすごく残念なんですよ。
しかも、こんなものにアカデミー賞なんか与えていいんですか。ハリウッドが古典的ハリウッドの作法を否定していいんですか。

撮影技法だけが際立つような映画は見たくありません。物語と演技と撮影と編集が渾然一体となった「普通の映画」が見たい。



東京の言葉に「直す」だと!?

ちょっと前ですが、職場の人と一緒に電車で帰る途中、地方出身者としてどうにも腹に据えかねるというか、いらだたしい言葉を聞かされました。

私は神戸出身者で、東京でも関西弁を喋っています。
その人は青森出身ですが完璧な東京弁を喋っています。

すると、「なぜ関西の人って東京に来ても関西弁を喋るんですか?」と聞かれました。

確かに、ちょっと前にネットで見ましたが、上京しても地元の言葉を喋る人間は関西出身者がダントツで多いらしい。

しかし、そんなのはどっちでもいいことです。

その人が言うには、「東北の人間はみんな言葉を直しますよ」と。

言葉を直す!?

じゃあ、関西弁や津軽弁は間違っていて東京弁が正しいんですかね? わからんなぁ。

確かに、関西弁は芸人がテレビで普通に喋ってるから東京でも通じる、津軽弁は通じない、ということもあるにはあるかもしれません。

それでも「言葉を直す」という言い方が気になります。通じないから東京弁を喋らざるをえないというのなら理解できます。
でも、その人の言い方は、「東京に来たら東京弁で喋るのが当たり前。地元の言葉を喋る関西人は野蛮だ」みたいな感じなんですよね。まったく理解できません。地元に対する誇りや愛情はないのか、このタコ! と恫喝してやりたくなりました。

東京だけが正しいのか! 東京だけが日本なのか!!

ちなみに私は東京生まれなので神戸の実家に帰ると東京弁で喋ってます。で、東京では関西弁で喋ってるという変な人間です。



リーガ第4節 マドリー1-0グラナダ(マン・オブ・ザ・マッチはケイロル・ナバス)

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チャンピオンズリーグ第1戦、シャフタール・ドネツク戦を4-0と圧勝したレアル・マドリード。主将セルヒオ・ラモスとベイルが怪我で離脱と、FIFAウイルスに冒されてハメスとダニーロが離脱したのに続いて今度はUEFAウイルスにまで冒されてしまったわけですが、ラフィーニャが今シーズン絶望となったバルサに比べたらほとんど無傷といってもいいのでは? ここは普段試合に出られない選手を試すいい機会と前向きにとらえたいです。(とはいえ、やっとトップ下として機能し始めたベイルの離脱は痛いですけどね) 


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決勝点を決めたのはイスコからの素晴らしいクロスを確実に決めたベンゼマでしたが、やはり今日のマン・オブ・ザ・マッチはキーパーのケイロル・ナバスですね。

前半に、オンサイドを副審がオフサイドの判定をしてくれて助かった場面がありましたが、何だかんだと開幕から5試合無失点。今日だって結構危ない場面が再三再四とありましたがナバス様様。すべてセーブしてくれました。
デ・ヘアとのトレード騒動も何のその、逆に闘志に火がついた感じ。カシージャスの放出はやはり正解でした。今日のナバスは何よりポジショニングが素晴らしかった。カシージャスなら2点は取られてましたね。

モドリッチもよく効いてたのでは? さすがボール奪取が多く、中盤でグラナダの攻撃の芽を摘んでましたね。

ただ攻撃陣がちょっと…

頼みのクリスティアーノ・ロナウドが強引に打てる場面でパスを出したり、精彩を欠きましたね。
ルカス・バスケスも前節でいい仕事をしたご褒美で先発だったんでしょうが、せっかくフル出場したのにまるでいいところなし。次のビルバオ戦ではヘセの先発を望みます。

あとはイスコがねぇ。
実況アナと解説のミシェルさんはイスコをべた褒めでしたけど、私はあまりいいとは思いませんでした。そりゃあの得点になったクロスはすごかったけど、あとはハメスとの格の違いばかりを感じてしまったんですが。やっぱハメスがいないとなぁ。チェリシェフもせっかくのチャンスを生かせませんでしたね。残念!

全体的にボールを後ろに下げる場面が多いのが気になります。前への意識をもっともっと前面に出してほしいな。

とにかく、ホームで格下相手のときにキーパーがマン・オブ・ザ・マッチになるような試合だけは見せないでほしいです。


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