聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『残穢 住んではいけない部屋』(ちっとも恐くない!)

中村義洋監督というところがちょっと引っかかりながらも、現代に残された最後のジャンル映画たるホラーということで期待して竹内結子&橋本愛主演の『残穢 住んではいけない部屋』を見に行ってきました。

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新居で暮らしていると変な音がする。調べてみると、前住人が変な死に方をしていることが判明したり、そのマンションが建つ前は空き地でその一角にはゴミ屋敷があってその住人も変死体で見つかったことが判明したりするなど、「戦慄の新事実」が次々と出てきて、恐いといえば恐いです。

しかしながら、「戦慄の新事実」の「事実」という言葉から明らかなように、すべてが因果関係で結ばれてしまっているのですね。

数週間前の「ホンマでっか!? TV」で、「運は本当にあるのか。あるとしたら運を引き寄せる術は?」という特集をやってましたが、その中で生物学者の池田清彦先生がこんなことをおっしゃってました。

「人間は何でもかんでも脳が物語をこしらえようとするんだな。こういうことがあったからこうなった、こうなったのにはこうこうこういう理由があるというふうに。で、何も悪いことしてないのに早死にしたとか、すごくいい人なのにひどい目に遭ったとか、因果関係でどうしても結べないことを『運が悪い』というようになったんだね」

つまり、因果関係で結ぶことのできない、脳がどうしても了解できないことを「運」というのだと。

脳は因果関係で結べることができるものだけを「事実」として認定します。了解可能だから。しかしながら、「真実」のほうはどうかというと、人間が真実だと思っているものは実は脳が事実と認定したもの、つまり「事実」だけであって、神ではない人間に真実は永久にわからないのです。

しかし、映画が扱うのは事実じゃなくて真実のほうですよね? というか、事実を通して真実に迫らなきゃいけない。見える事実を見せながら、見えない真実を観客の心の中に映じてこそ「映画」なのであって、この超常現象にはこういう理由があった、という恐い事実をいくら並べられても「こんなことが実際に遭ったらいやだな」とは思っても、「見てはいけないものを見てしまった」という、ホラー特有の見終えた後も何かがねっとりまとわりついてくる独特の感覚からは程遠いのです。

『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスやその家族がなぜあんな凶業を営んでいるのか、少しも説明されないですよね。因果関係など存在しないから恐いんですよ。そう、「理不尽」という言葉が一番適切でしょうか。

そういう本当のホラーは脳髄ではなく腹を直撃してくるものなんです。いや、ホラーにかぎらずすぐれた映画、すぐれた芸術作品はすべてそうでしょう。でもこの映画はひたすら脳髄にしか訴えかけてきません。

そうか、なるほど。で? というのが偽らざる正直な気持ちです。(竹内結子が相変わらずきれいなので金返せとまでは言いませんが)



森田真生『数学する身体』(運動・思考・情緒)

いまちょいとした話題になっている森田真生さんという在野の研究者による数学エッセイ『数学する身体』(新潮社)を読みました。



やはり、話題になってるだけあっていい本ですね。

前半は数学史。それも「身体を介した数学史」というところが本書の独創。

ギリシア数学は、パルメニデス(でしたっけ?)らの「この世に運動などない」という詭弁にあらがって、「直線を引く」とか「コンパスで円を描く」とか「運動」を前面に出して実際に身体を使った幾何学が主流だったんだとか。そもそも当時のローマ数字は数字を表すことはできても「計算」することにはぜんぜん向いてない。ギリシア数学は頭の中で計算することを端から相手にしていなかったと。

で、イスラムやインドの、計算が主流の数学が入ってきて、しかも幾何学と代数を同じ土俵で表現できるようになると、身体を使った作図ではなく、初めて数学は身体を離れて頭の中で計算することが主流となる。

そうした「思考」のはてに、エニグマ暗号を解読したチューリングという数学者の理論が基礎となって思考する機械=コンピュータが発明される。

なるほど。

しかし、ここまではただの前段。これを踏まえたうえでの後半が本書の真骨頂。

身体を離れ、人間の手をも離れた数学にあらがった数学者が日本にいた。

それが、岡潔という人。名前は聞いたことあったけど、著書を読んだことないし、何となく知ってる程度でしたが、この本では岡潔という人の少しも数学者らしくない数学者ぶりがあますところなく描かれていて非常に興味深い。

だって、数学者が「情緒」なんてことを言い出すんですよ。数学者が芭蕉をもち出すんですよ。

そして岡潔の真骨頂は「数学はゼロから始まる」といったヨーロッパの数学者に対し、「ゼロまでが大切」と当然のように言い放ったこと。

その言葉の著者なりの解釈は、数学を農業に例えると、種子から芽が出て水をやって大きくなって作物ができて・・・という、その最初の種子はゼロである。しかし、種子ができるまでが、つまりゼロに至るまでが本当の過程ではないのか。そこに数学の真骨頂が秘められているのではないか、ということらしい。

うーん、深い。常人には書かれていることは理解できても、「ゼロまでが大切」との言葉からそのような思惟をめぐらすことは至難の業です。禅問答のように「何となくわかった気になる」のは簡単ですがね。

ぜんぜん関係ないですが、「武道の究極の奥義は、微動だにせずして相手の剣先をかわすこと」らしい。でも、意味がわからない。何となくわかった気にはなる。で、私の場合そこで止まったまま。そこで止まらずに思索をつき進めることのできる人が一流と言われる人たちなのでしょう。

森田真生さんという、私よりずっと若いこの本の著者に心から頭を垂れます。

素晴らしい読書体験をどうもありがとうございました。



リーガ第23節 グラナダ1-2レアル(モドリッチ値千金のゴラッソ!)

ジダン新監督になってから3勝1分けとはいえ、ホームで3勝、アウェイでは未勝利。厳しいアウェーの地で勝ち点3を取り切れるかが課題でしたが…

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グラナダの前からのプレスに苦しみながらも30分にベンゼマが先制弾。ごっつぁんゴールでしたが、その前の、モドリッチからカルバハルへのスルーパスが素晴らしかったですね。

ゴールシーン以外でも、モドリッチからカルバハルへのスルーパスが何本もありました。

前節までなら、左サイドのクリスティアーノ・ロナウド、イスコ、マルセロのところへボールが流れると、モドリッチも中央へ流れることがほとんどでしたが、今日の試合ではずっと右にいましたね。左右の幅をできるだけ広くとってここぞというときのサイドチェンジを活かそうという戦術だったのでしょうか。ハメスからロナウドへのロングパスもありましたし。でもあれは決めてくれないと。今日のロナウドは絶不調。あれじゃ途中で替えられても文句言えないでしょう。

しかしながらもっともイライラしたのはパスミスが多かったこと。マルセロの失点してもおかしくないバックパスもありましたが、実際に失点したのも相手にパスしてしまったのが原因ですよね。どうもジダン政権になってからアウェーでの戦い方に自信がないのが気になります。

1-1となってからのジダンの采配にも疑問です。

ハメスに替えてヘセはいいとして、足がつったカルバハルを下ろさずイスコに替えてコバチッチというのが理解できない。カルバハルに替えてルカス・バスケスを右サイドバックで使ったほうがよかったのでは?

それに、モドリッチの勝ち越しゴールの直後にカルバハルに替えてナチョ。この交代自体はいいんですが、もし勝ち越せてなかったらどうするつもりだったんでしょう。勝ち越しのことをあらかじめ考える采配は疑問ですね。押せ押せムードだったのならいいけど、あまり勝ち越せる雰囲気じゃなかったですから。まずは勝ち越すための選手交代をすべきだったのではないでしょうか。

それにしてもジダンを救ったモドリッチの魂のこもったミドルシュートはすごかった!!! あれはまさにゴラッソ。しかも残り5分での。これからは試合終了の笛まで期待をもって見れそうです。

バルサが勝ち点落としてくれてることを期待してたんですが、やはり勝ってますか。最下位レバンテが相手だからしょうがないか。

ともかく、内容は悪いながらも勝ち点3をゲット。追撃態勢は整いつつあります。早くバルサが引き分けてくれないものか。アトレティコは直接対決で勝てばいいけど、バルサにはカンプ・ノウで勝ってもまだまだ差がありますからね。



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