聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『明日に向って撃て!』(どこまでも愚かな男たちの悲劇)

久しぶりにアメリカン・ニューシネマの名作『明日に向って撃て!』を見ました。

Img_0_2

この映画、私にとってかなり特別なものでして。

実は、いままで1万本以上の映画を見ているんですが、そのきっけかになったのがこの映画なんです。
17歳の秋でした。それまで映画などほとんど見てなかったのに、ひょんなことからたまたまビデオ(DVDではなくもちろんVHS)を借りて見たのでした。
そして、その面白さにやられてしまい、「世の中にこんなに素晴らしいものがあるのか!!」と驚愕、それから今日まで狂ったように映画を見続けてきました。

デビッド・フィンチャーなどもこの映画の大ファンらしく、いままで200回以上見ているらしいです。

他にも周りの友人でこの映画のシンパはたくさんいます。


しかしながら、この映画に関して大きな誤解をしている人が多く、残念な思いをしているのも事実なのです。(以下、ネタバレあります。ご注意を)

この映画のラストで主人公二人は警官隊が取り巻いているところに飛び出して行き一斉射撃を浴びて死ぬわけですが(あのストップモーションの何と美しいこと!)多くの人が、あの二人が警官隊が取り巻いていることを知っていて自ら撃たれるために飛び出して行った(」つまり自殺)と勘違いしている人がとても多いんです。

本当は、二人は警官隊が自分たちを取り巻いていることを知らず、それまで追われ続けた名うての保安官が相手ではないに気づき、それなら勝てる! と飛び出していくのですよね。あれを自殺と思っている人たちは、この映画がヒロイズムを謳っているとでも思っているのでしょうか。

この映画は「愚か者二人が時代の流れを見誤り、蜂の巣にされて死んでいく悲劇」です。ヒロイズムではありません。ただただどこまでも愚かな男たちへの哀切きわまりない挽歌なのです。

時代の流れ、といえば、この映画の前半部で、自転車を売る男が出てきます。「もう馬に乗って走る時代じゃない。これからは自転車の時代だ。自転車こそ未来なんだ」と。主人公たちはこの自転車を買うのですが、時代が馬から自転車、そして車へと移行していく流れを少しもわかっていない。いつまでも馬にまたがって銀行強盗ができると思っている。

最初のほうでポール・ニューマンが、「俺は世界を見通している」と自慢げに言う場面がありますが、少しも見通してなどいないのです。見通してると思い込んでいる愚か者なのです。
だから、名うての保安官に追われて命からがら逃げ延びたあと新天地ボリビアへ旅立つとき、「なにが未来だ、ボロ自転車が!」と自転車を投げ捨てます。(あの場面の自転車のタイヤがカラカラと淋しく空回りするカットの美しさ…)

Img_1
そういった「自分たちを取り巻く世界の流れが見えていない」ことを象徴するのがこのラストシーンなんですよね。自分たちを取り巻く警官隊にまったく気づかず出ていけば勝てると思い込んでいるという。

どこまでも愚かな男二人の悲劇。

しかし、ただ単に愚かなだけでは、このラストシーンがあんなに美しく衝撃的でいつまでも胸に残るものにはならなかったでしょう。(私が最初見たときはあまりの美しさにしばらく身動きできませんでした)



ラストシークエンスの前に、名うての保安官の姿を垣間見た二人は、このままだとあいつに殺られると銀行強盗をやめ、カタギの仕事に手を染めます。労働者に払う給料を運ぶ親方を護衛する仕事です。それまで銀行の金を奪い取っていた彼らが、今度は守る側になる皮肉。

最初の仕事でいきなり親方が山賊に撃ち殺され金を奪われるですが、二人は金を山分けしている山賊の前に立ちはだかります。そのときのセリフが素晴らしい。

「俺たちはその金を守るのが仕事なんだ。それは俺たちの金じゃないんだ」

それまで他人の金を奪い取ることしか知らなかった男たちが初めて見せる男気。自分たちの金じゃないからこそ命がけで守るんだ、という。
それまでも二人はとてもチャーミングで観客はみんな彼らのことが好きだったでしょうが、この場面において彼らはただの「悪いけど愛嬌のある奴」から「本当のヒーロー」へ転身するわけです。しかし、そのまま改心すればよかったものを、またぞろ強盗に走ってしまう。

彼らは自分たちを取り巻く世界の流れにも盲目なら、自分たちの心にも盲目でした。己の心に宿った正義に気づかなかった。

どこまでも愚かな男たちの悲劇。

でも、どこまでも愚かな人間を描いているからこそ、いつまでもこの映画が好きなのかもしれません。

 

「将来役に立つ学問」という傲慢

もう結構旧聞に属することかもしれませんが、文科省が人文科学など文系の学問は実社会に出てから役に立たないからとかいう理由で学部ごと廃止すると言いだして問題になりましたが、これはまことに愚かなことです。

尾木ママは、「一番役に立つ学問は哲学、倫理だ。文系の学問こそ役に立つ」と言ってますが、そういうふうに反論するのは敵の土俵で戦うことになってしまって良くないと思います。

「将来役に立つ」かどうかで学問を評定することが愚かなのです。

とはいえ、「役に立たないことこそが人生を豊かにするのだ、無駄なことが大事なのだ」という言説も、結局は学問を役にたつかどうかで評定しているという意味では文科省の政治家・官僚たちと同列でしょう。

私はまず「役に立つ」より「将来」のほうに大きな問題があると思うのですよね。

例えば、中学生なんかが「数学なんて勉強したって将来役に立たない」と言う。確かに一理あるかもしれません。しかしながら、十年後、二十年後の自分が数学と縁のない仕事に就いてるかどうかなんて、なぜ「いま」の時点でわかるのでしょうか。

いま役に立っていないものは将来も同じように役に立っていないはずだ、という前提で彼らは文句を言っていますが、それは論理的に誤ってますよね。誰も将来の自分がどうなってるかなんてわからない。未来を見通せる人間はいません。

「将来役に立つ」とか「将来役に立たない」とかいう言説はすべて「未来を見通すことができる」という神を畏れぬ傲慢な精神から発しているのです。

もっと謙虚にならなければ。将来自分がどうなっているかわからない。だから、いま必要と思われるものだけでなく、こんなの不必要としか思えないものもきちんと学ぶ。

本来そういうことを教えるのが「学校」であり、「学問」の礎だと思うのですが…。

いつの間にか空を見なくなっている自分に気づく

小学校の卒業文集には、

「将来は天文学者になりたい」

と書いたほど星を見るのが好きな子供だった私。

それが、いまではすっかり空を見上げなくなっていることに気づく。

日々の雑事に忙殺されて足元しか見れてないからだろうか。

たとえそうでも、少しでも星を見てロマンチックな気分に浸りたい。

これからは暇があったら空を見上げようと思います。車に轢かれて死ぬかもしれんが。。。

 

LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。