聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

史上最高のアメリカ映画!? 『ゴッドファーザー』

イギリスのBBCが世界各国の映画評論家にアンケートを取って、「最高のアメリカ映画100本」を選出しました。

1位はまたぞろ『市民ケーン』ですが、2位は『ゴッドファーザー』でした。そして10位に『ゴッドファーザーPARTⅡ』が入っています。だから合わせ技でこのシリーズが史上最高のアメリカ映画といっても過言じゃないのでは?

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『ゴッドファーザー』の主人公は誰か
よく、「『ゴッドファーザー』の主人公はマイケル(アル・パチーノ)だ」というと、「ヴィトー(マーロン・ブランド)だろう」と言い返されるんですが、それは明らかな間違いです。

この映画のクライマックスは、上の画像にあるように、マイケルが妹コニーの旦那を平気で殺す冷酷非情なゴッドファーザーになった場面です。妻のダイアン・キートン(役名失念)に「ほんとにコニーの旦那さんを殺したの?」と聞かれて「ノー」と答えます。ファーストシークエンスではあどけない顔の若者として登場したマイケルが最終的に最愛の妻にさえ平気で嘘をつく人相の悪い男になってしまう。あの「ノー」の場面がこの映画のクライマックスですね。

ヴィトーはクライマックスのはるか前に死んでしまうのだから主人公であるはずがありません。


ホームドラマ
この記事には「ホームドラマ」のタグを付けていますが、「『ゴッドファーザー』はホームドラマだ」というと、これにも異議を唱える人がいるんですよね。

なぜでしょう?

マイケルが裏の稼業に手を染めるのは父ヴィトーが撃たれ少しでも家族の役に立ちたいと思ったからですが、なぜヴィトーが撃たれたかというと、タッタリア・ファミリーからの「手を組んで麻薬取引をやらないか」という申し出を断ったからです。なぜ断ったか。「麻薬は家族を滅ぼすから(ヴィトー)」です。
長男ソニー(ジェームズ・カーン)が殺されたのは、コニーが旦那から暴力を振るわれていて助けに行こうとしたからです。

すべての登場人物が「家族のために」行動しているのに、それがすべて裏目に出てしまい家族がバラバラになってしまう物語なのに、ホームドラマじゃないなんて絶対におかしい。

ヴィトーは、かわいい三男坊のマイケルにだけは暴力で人を動かす汚れた稼業に手を染めてほしくないと思っていました。それが、マイケルが跡目を継いだばかりか、義理・人情を重んじるヴィトーとは対照的に、マイケルは金しか信じない極悪人になってしまう。ヴィトーの思いをことごとく裏切り、偉大なる父ヴィトー・コルレオーネとは似ても似つかぬゴッドファーザーに成り下がってしまいます。


金では動かない男ヴィトー
「アメリカはいい国です」から始まる印象的なファーストシーンで、葬儀屋は娘をレイプした男たちを殺してほしいとヴィトーに依頼に来ます。
「おまえの娘は殺されたわけじゃないから痛めつけるだけで充分だ」
「私は殺してほしいと頼んでいるんです。いったいいくら払えばいいんですか!」
「俺はそんなに情けない男か⁉ おまえが俺を常日頃からゴッドファーザーと呼んでいれば頼まれなくたってそんな奴らは痛めつけてやる」
葬儀屋がかしずいて「ゴッドファーザー」とヴィトーの手にキスをすると、
「これでおまえは友人だ。頼みを聞いてやる」

金では決して動かない男ヴィトーの礎を作ったのは何だったのか、それはPARTⅡで明かされます。


パン屋がもってくる「一輪の花」
撃たれたヴィトーが入院している病院をマイケルが訪れたとき、パン屋が来ますよね。このままでは殺されるから病室を移す、おまえも手伝えと強引に手伝わされる人。あのパン屋がもってくる「一輪の花」がヴィトーという男を象徴していると思います。

パン屋だって豪勢な花束を買いたかったはずなんですよ。でも貧しいから一輪の花しか買えない。でもヴィトーは何よりも相手の気持ちを汲む男です。金なんてどうでもいい、見舞いに来てくれたことがうれしいと喜んで受け取る男なのでしょう。

しかし!

ベッドを移動させようにも花が邪魔でパン屋が手間取っていると、マイケルはあろうことかその一輪の花を奪って床に捨てるんですね。あそこにこそ父と子のスケールの違いが顕わになっていると思います。


フレドーについて口を閉ざすヴィトー
マイケルの次兄はフレドーという能無しの男ですが、そのフレドーについてヴィトーは何も語りません。腹の中では能無しと思っているんでしょうがそれだけは決して口にしない。それを口にしたら終わりだという良識をヴィトーという男はもっていました。薄汚れた仕事に手を染めながらも、人としての矜持を失わない男でした。

しかし、マイケルは『PARTⅡ』において、そのフレドーを能無し呼ばわりするばかりか、自ら殺してしまいます。

主人公はあくまでもマイケルですが、マイケルを通してヴィトーという男の偉大さがどんどん浮き彫りになっていきます。

続き
史上最高のアメリカ映画?! 『ゴッドファーザーPARTⅡ』



義理・人情の任侠映画は古いのか否か

久しぶりに山下耕作監督、藤純子主演の『緋牡丹博徒』を見ました。

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2年ほど前に、4作目か5作目か忘れたけど、『花札勝負』を見たとき、すごく古く感じられたんですよね。
5年くらい前に違うシリーズの『昭和残侠伝 死んで貰います』を見たときも、面白いんだけど何だか古臭い感が拭えなかったんです。

任侠映画の次に登場した、『仁義なき戦い』を嚆矢とする「実録やくざ路線」をたくさん見てきたからか、どうにも義理・人情に訴える任侠ものが古く見えたのかな、と。

思い出すのは、92年の『継承盃』ですね。

あの映画のキャッチコピーは、「いままでのやくざ映画はすべて間違いでした」というもので、これに深作欣二監督が激怒したと伝えられました。

私は、怒るなんて筋違いだと思いましたね。

だって、深作さん自身が任侠映画を否定して世に出てきたわけでしょ? 自分で旧路線を否定しながら、自分が否定されたら怒るなんて都合よすぎる、と。

映画にかぎらず、どんな世界でも、新しい世代が古い世代を否定して世の中は変革されていくのだから、大家となった自分が否定されるのもまた喜ばしいことなんじゃないかと思ったもんです。(『継承盃』の出来が悪いとかいうのはもちろん別の話)

で、このシリーズの記念すべき第1作も古臭いのかな、と思って見てみたらば…

これが実に面白いんですね。

純粋でまっすぐな想いがあり、その一方で裏切りや策謀など邪な思いがあり、それらが交錯して最後の殴り込みに至る、というほとんどの任侠映画に共通する筋立てですけど、これが本当に面白い。もう何度も見てるのに、それでもやっぱり面白い。

だから、任侠映画が古いのか否か、よくわからないんです。
『花札勝負』や『死んで貰います』が古く感じられたのは、映画そのものの古さであって、任侠の古さではなかったのかな、とも思うんですが、この問題については、『日本侠客伝』とかほかのシリーズもきちんと見返さないといけない気がします。

でも、いまの私にそんな時間はないので、とりあえず『緋牡丹博徒』第1作はやっぱり面白かった! ついでにいうと藤純子がやたらきれいだった! ということで終わりにさせていただきます。

ではでは。


空間の結界、時間の結界

先日、当ブログでご紹介した驚異の予言者ババ・ヴァンガさんのことを調べたら、にわかに予言なるものに興味をもちまして。
まぁ、1999年7月が終わるまでは人並み以上に予言には興味をもっていたんですが、ババ・ヴァンガの予言内容を見てみるに相当すごいことを予言してるので、自分の中の「予言熱」が再燃してきたという次第。

で、『予言の日本史』という本を読んでみたんです。あまり面白みのない本だったんですが、この著者は数年前に『葬式は、要らない』という本を出して結構売れたんですよね。私は未読なのであの本の内容に言及することはできませんが、題名については大反対なんです。

昔は「葬式なんていらない」と私も思っていました。自分の葬式もしてほしくないと思っていました。

でも、歳をとるにつれて、それは間違いなんじゃないかと思うようになったんですよね。

葬式は死んだ人のためにあるものじゃなくて、生き残った人のためにあるんじゃないかと。遺された人たちが、死んだ人の死を受け容れるようにするための儀式だと思うんですよ。

結婚式もそうでしょう。儀式を経ることで当人たちが内側から変わることが期待されている。

これは「時間の結界」だと思うんですよね。

ある人の死を境に、それ以前とそれ以後を葬式という儀式で結界を張る。結婚式でもって独身時代と夫婦になった時間の間に結界を張る。入学式、卒業式、成人式、入社式、何でも式と名の付くものはそうだと思います。

むかし、ある落語家のトークショーを聞きに行ったら、落語家が高座に出て扇子を前に置くのは、噺を語る自分と聴くお客さんとの間に結界を張っているんだ、ということを言っていて、なるほどそうなのか、と驚愕したんですよね。

これは「空間の結界」でしょう。

食事のときもそうです。食べ物と自分の間に箸を横に置く。食べる自分と食べられる死んだ生命との間に結界を張っている。そして、「いただきます」の一言によって時間の結界も張る。「ごちそうさまでした」はすべての結界を解消する一言なのでしょう。

「いただきます」って作った人やお金を出した人に対して言うものだと思ってる人が多いみたいですが、間違いじゃないけど、上記のような「結界」という意識をもたずに言っても食べ物のありがたさは一生わからないと思いますね。

いろいろ生活を振り返ると…

暗くなったらカーテンを閉める、とか、朝起きたらカーテンを開ける、のも空間の結界なのかな、と思ってみたり。

「おはようございます」とか「こんにちは」という挨拶は時間の結界を解消する一言なのかな、と思ってみたり。挨拶する前の「お互いを知らない時間」と挨拶したあとの「顔見知りの時間」の境界に結界を張ってるのではないかと。逆に「さようなら」は結界を張る一言なのかな。よくわかりませんが。

「結界」ということを意識して生活するといろいろ新しいことが見えてくる気がします。



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