聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『サウルの息子』①(演出上の問題について)

先日のアカデミー賞で見事最優秀外国語映画賞に輝いた『サウルの息子』を見てきました。

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「早くも今年のベストワン」という人もいれば、激しい嫌悪感を示す人もいたり、賛否両論みたいで、楽しめるのか途中退出したくなるのかどっちだろうとドキドキした状態で見始めましたが、すんなりと映画の世界に入り込め、最後まで楽しんでみることができました。(悲惨な戦争映画を「楽しむ」というのはいかがなものかという気もしますが、まぁそれはそれとして…)

ただ、この映画には大いなる問題があると思うんですよね。見ているときに感じたのはひとつだけでしたが、見終えてから二つに増えました。

というのも、この映画はずっと主人公サウルに密着して撮影されてるんですね。全編主人公だけを追い続けている。私はそこに何かちょっと奇をてらった感じを受けて「もうちょっと普通に撮っても良かったんじゃないか」みたいなことを友人に言ったところ、その友人は絶賛派で、

「普通、映画は主人公の言動を俯瞰的に見るんだけど、『サウルの息子』では主人公だけを追うことでその俯瞰的観賞をしにくい状況を生み出し、同時に主人公の体験を観客が追体験できる仕掛けになっている。しかも周りで起こることがアウシュビッツでの地獄絵図なのでまさに強烈な映画体験ができた」

みたいなことを言ってきたんですね。

うん、確かにそれはその通りでしょう。私も最初見ていて、ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』みたいだな、ぐらいに思っていたのが、いろんな迫真性の高い出来事が起こるので、そういう小賢しい映画知識が吹っ飛んでサウルの体験を疑似体験することができました。サウルだけを追うことでそれが可能になったことを否定しません。

しかし、私はその友人にこう反論しました。

「例えば、ヒッチコックが多用した、主人公の主観ショットとその主人公を捉えた客観ショットをカットバックしたほうが観客が主人公に同化しやすくなったんじゃないか」と。

つまり、「主人公を」撮るんじゃなくて、「主人公が」見たものを撮ったほうがいいんじゃないか、ということです。もちろん、「主人公を」撮ったショットとカットバックさせるわけですけど、主人公の目と観客の目を同一化させたほうがもっとその効果が出たんじゃないか。

ただ、ラストに出てきた少年(あれが一体誰なのかいまだによくわかりません。サウルが息子の幻影を見ているのかと思ったらどうも違うみたいだし)とのカットバックを印象づけるためにそれまでの100分近くをカットバックなしでやってきたのかな、という気もします。

結局、「よくわからん」のです。

私が古典的ハリウッド映画作法の信奉者だからそう思うだけかもしれないし、そうなると「好みの問題」ということになってしまう。でも芸術って結局好みの問題じゃないの、という気もします。

いったいどっちがいいんでしょうか。映画作りとは本当に難しい。

もうひとつの問題は脚本上のものですが、これについてはまた後ほど。

続きの記事
②脚本上の問題について



『王様のレストラン』大解剖⑥(終)(最低だが素晴らしい!)



『王様のレストラン』大解剖シリーズもいよいよ最終回です。

印象深い最終回、第11話にまたしても涙を流してしまいましたが、今回の再見で明らかになったのは、この『王様のレストラン』で「ヒーロー」と呼ぶにふさわしい人は、千石さん以外の全員だということですね。

禄郎だけがヒーローだと思ってましたが、違ってました。

この『王様のレストラン』は、「千石さんが他のみんなを導いていく」ように見せながら、その実、「他のみんなが千石さんを暗黒面から救い出す」物語なのでした。

プチ・ヒーローしずかにとっての助言者が千石さんだったように、禄郎もまた物語全体のヒーローではなく千石さんにとっての助言者という役割だったのではないでしょうか。

ヒーローが誰かを考えることは主人公を明らかにすることだと確か一番最初に書きましたが、昨日最終回を見てやっとわかりました。主人公は千石さんです。

主人公は千石さん。暗黒面に堕ちた千石さんを救い出すのが他のみんな。


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ずっと私は、千石さんがやる気も知識もないベル・エキップの面々の問題を一つ一つ解決していく物語だと思っていました。第10話で千石さん自身が暗黒面に堕ちるというのはあるにしても、それは最後のほうだけの問題であって、前11話通しての問題ではないと。

しかし、前回にも書いたように、千石さんは第1話から傲慢なアンチヒーローです。確かに、言うことはいちいち的を射ている。何も間違ったことは言っていない。でも、いや、だからこそ彼が問題の根源なのだというのがこのドラマの肝であり、三谷幸喜の思想でもあるのかもしれません。

有り余るほどの知識をもっていても、それを利用して「教えてやろう」という態度は傲慢極まりないと。何もわかってない人間でも「自分は何もわかってない」「自分は何者でもない」と思っている人物こそが世界を救うのだと。(しずかがまさにそういう人物ですね。禄郎も、他のみんなも)

先代オーナシェフの暴走を戒めていた頃の千石さんはヒーローだったでしょうが、クビにされ、舞い戻ってきたとき、自分ならこの薄汚い店を盛り返せると思ったのでしょう。だから千石さんは第1話ですでに暗黒面に堕ちたアンチヒーローなのです。

そして、第10話までそれを前面に出さないのが三谷幸喜のうまいところです。あくまでも千石さんが他のみんなにとってのヒーローであるかのように見せながら、実は他のみんなが千石さんを暗黒面から救い出し、彼を再びヒーローズ・ジャーニー=英雄の旅へと旅立たせる役目を担っている。実にうまい構成です。

だから、この『王様のレストラン』はどこまでも千石さんに焦点を当てた「千石さんの個人史」だったのですね。群像劇ではありません。千石さんのメインプロットに絡むサブプロットがかなり多岐にわたるため群像劇に見えているにすぎません。主となる構造は「アンチヒーローに堕ちていた主人公のヒーローへの脱却」というめちゃくちゃシンプルなものです。

アンチヒーローといっても、それはヒーローの暗黒面ですから、その暗黒面を脱却すればまたヒーローに返り咲ける。

ヒーローとして現れた千石さんがアンチヒーローになり、また……という物語ではない。
アンチヒーローとして現れた千石さんを他のみんながもう一度ヒーローとして蘇らせる。ここが『王様のレストラン』の要諦ではないでしょうか。

最大の問題児・範朝だって、彼が店を売り飛ばそうとしたことで逆に千石さんが自分はアンチヒーローだと自覚する役目を担っているのですから、ヒーローでしょう。何より、店に戻ることを渋る千石さんに最後の一押しをしたのは、ギャルソンの制服を突きつけた範朝その人です。

最終回で千石さんは高らかに言いました。

「この店は最低です。しかし最低ではあるが素晴らしい!」

第10話では畠山が稲毛に「俺はお前のこと嫌いだけど、好きだ!」と言います。

この『王様のレストラン』では、「○○だけど××」というのが底流している気がします。「あったかいシャーベット」というのもその一環ですかね。

アンチヒーローたる千石さんは明日のヒーロー。
他のみんなも千石さんのようにアンチヒーローになるかもしれない。(特に禄郎)

「ヒーロー(に見える)だけどアンチヒーロー」
「アンチヒーロー(に見える)だけど実はヒーロー」

というのがこの『王様のレストラン』の肝ではないでしょうか。

再び英雄の旅に出た千石さんの目標は、決して「一流のギャラにふさわしい一流のギャルソンになること」ではなく「最低(なギャルソン)だが素晴らしい人間」になることです。それは、親友だった先代オーナーシェフに対して彼が言ったとされる「たとえ一流と呼ばれる店であってもあなたに人を思う心の優しさがないかぎりこの店は三流以下だ」の実践となるでしょう。

エンディングを迎えたときの千石さんにとって難題と思われるその旅が吉と出るか凶と出るかは…

それはまた、別の話。


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「子供を二人産め」と言った校長の言葉に潜む一片の真理

大阪の中学校長が「女性にとって最も大切なことは子どもを二人以上産むこと」との発言がやたらと世間から袋叩きにされてますね。

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私もどうかと思います。

ただ、「国のために」とか「二人以上」という文言がなければ私は特に問題とは思いません。

人々は国家のために生きてるわけじゃないし、二人以上産むべきだというのは少子化対策でしょう? 人口を増やすのが国民としての務めだ、このまま少子化が進んだら社会保障費はどうなるのか、という計算が見え見えなので厭なのです。

でも、「人は子どもを産み、育てるべきだ」との言説自体には少しも反対ではありません。

子どもがいないばかりか結婚すらしていない私が言っても何も説得力がないことを百も承知で言いますが、私の尊敬する思想家の内田樹先生が、いろんな本でこんな意味のことをおっしゃっています。

「結婚によって人は成熟する。まったくの他人に合わせたくもないのに合わせ、したくもないことに付き合い、子どもが生まれればわがままばかり言われ、そうやっているうちに人間が成熟する」

結婚してないから想像ですが、おそらく相当なストレスだろうと思われます。しかも子どもという別の生き物が生まれてしまっては自分の時間を捻出するのがかなり難しいだろうことも容易に想像されます。

でも、そうやってこれまで人間は成熟することを怠らずに次の世代にバトンタッチしてきたのでしょう。

子どもがほしくても金がない、そもそも結婚できない、それはわかります。かの校長さんはそういうことにも配慮がないから叩かれているのでしょう。「保育園落ちた日本死ね」との匿名ブログが話題ですが、子どもを産みたくても産める体制が整っていない。それはそうなのでしょう。しかしそれは少子化と同じく政治の問題であって、人としてのあり方とは別問題です。

世間では「子どもを産まない自由もあっていい」「価値観の押しつけだ」という声が支配的のようです。私も同じことを思います。

しかしながら、私と同世代か、それより下の世代は「自由」ということにあまりに重きを置きすぎじゃないでしょうか。

確かに人はみな自由であるべきです。私だって、かつて自殺を図ったことがあるので、仮に結婚したとしても「子どもが同じ自殺願望に憑りつかれるかもしれないから産むのはやめとこう」と考える可能性は大いにあります。だから子供を産まない選択をした夫婦を否定できません。

ですが、かの校長さんの、「親に育ててもらったから、子どもを育てることでその恩を返すべき」との言葉が間違ってるとは少しも思いません。

私だって、育児に時間を取られて自分の時間がなくなるのは厭です。でも、おそらく内田先生のおっしゃるように、それ以上の「成熟」を得られるんじゃないでしょうか。

これは自戒をこめて言うのですが、いまの日本には「成熟したくない大人」が増えてる気がします。そういう人は本当の意味で大人ではありません。死ぬまで子どものままでいたい人たちの急増。

だから、かの校長さんの言葉には叩かれてしかるべき文言もありますが、一片の真理もあるはずなのです。

それを叩きに叩くだけで、真理のほうには誰も耳を傾けようとしない。「自由に生きる」「自分の時間を失いたくない」ことを唯一の正義であるかのように言うのは感心しません。



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