聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『王様のレストラン』大解剖③(シェフしずかはヒーローでないのか?)



『王様のレストラン』大解剖シリーズ

①「ヒーロー」は千石さんではない!?
②ヒーローはオーナー禄郎である!

に続く第3弾です。

前回のラストで、『王様のレストラン』のヒーロー、つまり問題を解決する人物は、筒井道隆演じるオーナーの禄郎だと仮説を立てました。

が、その前に確認しておきたいことは、前回の最後で引用した「一流のレストランに必要なのは、シェフとギャルソン、そしてオーナーです」という千石さんのセリフです。

伝説のギャルソン千石さんはヒーローでない、そしてオーナー禄郎こそヒーローだと仮定するなら、なぜ「オマール海老のびっくりムース」を開発したシェフしずかはヒーローなのか否かという疑問が起こります。

神話とは「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」のことですが、このしずかもまたヒーローなんですね。

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え? どういうこと?

この物語は群像劇だし、連続11回の物語なのでヒーローが各回に一人ずつ、全部でたくさんいるんです。

いや、ヒーローはたった一人のはずだから、それぞれはプチ・ヒーローでしょうか。

例えばわかりやすいのは、メートル梶原が元妻に「俺はディレクトール、総支配人なんだ」とウソを言ったためにウソの上塗りを重ねなければならなくなる、という第6話。
あのエピソードのヒーローは梶原その人でしょう。自分で問題を作っておいて自分で解決するなんてマッチポンプですけど、自分が作った問題以上の問題(本物のディレクトール範朝に用があって来た借金取りの出現)を解決してしまうのですから。

第7話では、まったく話のはずまない外交会議が描かれますが、これを解決したのは「一番この店の役に立ってない」と自分で思っていたバルマン政子でした。

寄り道をすると、この第7話がちょっと異色なんですよね。前々からこのエピソードだけ好きになれないと思っていて、その理由は「淀んだ空気を描こうとするあまりドラマ自体が淀んでいるから」と思っていたんですが、今回再見して本当の理由がわかりました。
政子は「早く食べなさいってフランス語でどういうの?」と千石さんに聞き、教えられた言葉をフランス人たちに言って問題を解決するんですが、実はその言葉の本当の意味は「坊や、お口動いてまちぇんよ」と母親が赤ん坊に言う言葉だと最後に明かされます。

つまり、第7話で問題を解決するのは政子でも、後ろで糸を引いているのは千石さんなんですね。ここが他のエピソードと違うところです。どう違うかは後述します。

さて、シェフしずかは彼ら各回のプチ・ヒーローとはちょっと違います。

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昨日放送された第8話は非常に印象深いラストシーンがたまらないんですが、彼女の旅は「一流の自覚がなかったシェフがその自覚をもち、最高のシェフになるまで」となるでしょう。

もし、「最高のシェフは恋をしているシェフ」というミッシェル・サラゲッタ氏の言葉が正しいなら、第8話においてしずかは最高のシェフになりました。

彼女に一流の自覚を促したのも、最高のシェフに押し上げたのも他ならぬ千石さんです。ならば千石さんがやはりヒーローでは?

いやいや、それは違います。千石さんはしずかのヒーローズ・ジャーニーにおいて、例えば『スターウォーズ』におけるルーク・スカイウォーカーに対するオビワン・ケノービの役どころです。ヒーローを手助けする助言者ですね。

一流への旅に出ることに臆病だったしずかを強引に旅へ出してやるのは千石さんです。第2話で無理やり作ったことのない料理を作らせ、「あなたはコンダクターになる」と命令とも予言とも取れる発言でしずかをその気にさせる千石さんは完璧な助言者です。

そして、しずかはオマール海老のびっくりムースという独創的な料理を作り、店への客足はかつて先代オーナーシェフが存命だったころの勢いを取り戻します。

そして、千石さんへの恋心を募らせた挙句、パリでも五本の指に入るという超一流レストランからの誘いを蹴ることで、逆に最高のシェフへと変容する。

じゃあ、しずかがヒーローじゃないか。オーナー禄郎はしずかの旅に何も関わっていないどころか、最初からしずかのことが嫌いだったぞ。店に引き留めようと画策はしてたけど。

確かにその通りですが、やっぱり、しずかはこの連続ドラマの「本当のヒーロー」ではないのです。

なぜなら、しずかの英雄としての旅はこの第8話で終わってしまうからです。全11話を通してのヒーローではない。彼女もまた梶原や政子と同じプチ・ヒーローだったのです。

では、なぜオーナー禄郎こそが全11話を通したヒーローと言えるのか。

それは千石さんの役割とは何かを考えればおのずと答えが出ます。

続き
④ディレクトール範朝から千石さんへと至る道
⑤アンチヒーロー千石武
⑥最低だが素晴らしい!




『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!

1971年製作『ダーティハリー』は泣く子も黙る名作として知られていますが、私もご多分に漏れず大好きでして。


「わからない」というセリフ
主人公のハリー・キャラハンは、新しくタッグを組むことになった相棒のチコとともに連続射殺魔「さそり座の男」を追い詰めていきます。で、その過程でチコが撃たれて入院する。
ハリーが見舞いに行くと、婚約者がチコの看病をしている。チコは、刑事を辞めたい、教師の資格をもってるからそっちで生計を立てていく、と言います。

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婚約者に見送られるハリーは、「君たちには無理だ。辞めたほうがいい」と理解を示すのですが、チコの婚約者が「じゃあ、あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊きます。
そのとき主人公ハリーは「I don't know」と答えるんですね。そのあとも何か一言言ってますがよく聞き取れません。日本語字幕ではすべてひっくるめて「さてね、わからんよ」とだけ訳されてますが、私がこの映画を見ていつも引っかかるのがこの「I don't know」なのです。


「わからない」の理由は?
大きく二つ考えられます。

①本当にわからないから「わからない」と答えている。
②わかりすぎるほどわかっているけど、あえて「わからない」と答えている。

①は論外です。理由は誰の目にも明らか。

では、②はどうでしょうか。
可能性としては充分あると思いますね。

悪を憎む正義感を人一倍もっているからこそ自分は刑事としてしか生きられない。そういう自覚をハリー・キャラハンという男はもっていると思います。さらに、チコの婚約者との会話で明らかになるのは、ハリーにはつい最近まで奥さんがいたが交通事故で死んでしまったこと。

チコは、最初はハリーに「学士の刑事か。出世するぜ。死ななきゃな」と反感を抱かれていました。「俺の相棒は入院するか死ぬかだ」と言われても「だから?」と即答するほど肝っ玉もある。そんなチコが刑事を辞めるのは、ひとえに婚約者のため。自分が死ねば悲しむ人がいるからです。

ハリーにはもうそんな人はいない。しかも「学士の刑事か」というセリフから察せられるのは、彼にはろくな学歴がない。チコのように教師の資格をもっていて他の職業で口に糊していくこともできない。

だから、「なぜ刑事をやっているの?」と問われたとき、その理由がわかっているのに「わからない」と答えるのでしょう。チコが羨ましいけどそれは言えない、という男としての矜持もあったことは想像に難くありません。


新しい可能性
でも、本当にそれだけなんでしょうか? それだけならあのセリフにこんなに引っかかるだろうか? 
①と②とは別の新たな可能性はないだろうか、と考えたところ、新しい可能性に思い当たりました。

③無意識ではわかっているが意識の上ではわかっていないので「わからない」と答えている。

ハリーは前述のとおり正義感に溢れた刑事です。しかしちょっとその正義感が行き過ぎている。

令状なしで容疑者の家に押し入るというのは刑事サスペンスではよくあります。別にハリー・キャラハンの専売特許ではありません。
しかし、丸腰の容疑者を撃ち、さらに傷口を足で踏みつけるなどというサディスティックな一面は、ハリー・キャラハンという男に特有のものです。

彼は自分が正義感に溢れていることを充分自覚していますが、それが行き過ぎて犯罪者をリンチにかけることに少しも心の痛みを感じないことにはおそらく無自覚です。

凶悪犯を逮捕するのが自分の仕事だから、という自覚以上に、凶悪犯を血祭りにしたいという無意識の欲望には無自覚だから「わからない」という言葉が出てきたのではないか。


本当の理由はこれだ!
と、ここまで考えてきて、はたと思い当りました。4番目の理由に。そして、それこそが本当の理由なのではないか。

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70年代初頭、凶悪事件が頻発するアメリカで、異常者はすべて処刑してしまえ! という一般大衆の無意識の願望が作り上げたのが、異常なまでに正義感が肥大化した主人公ハリー・キャラハン。

『フレンチ・コネクション』しかり、『狼よさらば』しかり、あの頃のアメリカ映画には似たような主人公が描かれていました。

脚本家チームは、凶悪犯を血祭りにしたいという一般大衆の無意識的欲望を具現化してハリー・キャラハンというキャラクターを造形したと思われます。一般大衆といえば聞こえがいいですが、それは無論、脚本家たち自身のことです。自分たちの欲望をハリー・キャラハンという主人公に託したのです。

とはいえ、いくらフィクションの登場人物とはいえ、いったん生きた人間として生み出された以上、ハリー・キャラハンはハリー・キャラハン一個人として行動しなくてはなりません。

かつて黒沢清監督は「映画作りとは、映画の原理と世界の原理とのせめぎ合いのことだ」と看破しました。ここでいう「映画の原理」とは「強盗は強盗する、人殺しは殺す、恋人は恋をする」という、役柄とその言動が一致する原理、つまりは作者が登場人物にこうさせたいという欲求をそのままさせてしまうことです。

対して世界の原理とは「強盗だってそんなに簡単に強盗するわけではないし、人殺しだって殺してばっかりいるわけではない」という現実の原理のことですね。いくら作者がそうさせたくても、いったん生み出されたキャラクターである以上、作者の欲求よりキャラクターの欲求こそ優先されなければなりません。

『ダーティハリー』の脚本家たちも、そのせめぎ合いに苦しんだのでしょう。ハリー・キャラハンの言動に自分たちの欲望を乗せようとしているなど微塵も感じさせないほどキャラクターが立っているのですが、「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、そのせめぎ合いが絶頂に達したと思われます。

そして、「わからない」というセリフは、映画の原理が世界の原理に敗北した結果だったのではないか。

つまり、ハリー個人は異常犯罪者を血祭りにしたいことには自覚的なのです。なぜなら、映画冒頭の市長と相対するシーンで「男が裸で女を追いかけてたら、まさか共同募金じゃないでしょう」とウィットに富んだセリフを言います。自覚しているからこそ言える言葉です。
しかし、だからといって射殺する必要があったのか、というのが世界の原理に属する市長の言い分であり、実際、「屁理屈だ」と市長は吐き捨てるように言いますね。

だから、「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、「刑事なら合法的に悪人を殺せるからね」と(脚本家たちの)本音を冗談っぽく言ったとしても不思議ではありません。それが『ダーティハリー』という映画の原理のはずです。市長相手に屁理屈こねられる人間ならそれぐらい簡単です。なのに「わからない」とあえて答えるのは、「異常者を血祭りにしてやりたい」というハリーの本音は、実は自分たち脚本家チームの本音であるがゆえに、それを隠そうという無意識が働いたのではないか。

あの「わからない」は、ハリー・キャラハンその人の言葉ではなく、脚本家たち自身の声だったんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?

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『早春スケッチブック』で耳が痛くなった件(二つ目)

ここんところ山田太一さんの『早春スケッチブック』を見ることで、とてつもなくやりきれない思いを強いられているのですが、昨日の日記『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)で書くの忘れてたことをつらつらと。

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山崎努演じる「ありきたりが大嫌いな男」は、カメラマンで一時代を築いた人間で、初めて会う18歳の息子・鶴見辰吾に焚き火をしながらこんなことを言います。

「こうやって枯れ枝を見つけると、どの角度から撮るか、光の具合は、寄るか引くか、そんなことばかり考える。そして撮る。撮ってしまえばもう枯れ枝のことなんか忘れてる。次の獲物を探してる。いつの間にか、ひとつの物事をじっと見つめられない人間になっていることに気づく。人を、街を、花を、自分は少しも見つめていない」

これまた私のことです。

夢の実現のためにあくせくばかりしてしまって、周りの風景が目に入らない。きれいな花が咲いていても、そんなものに時間を奪われるのがいやでしょうがない。

山崎努のように「獲物」にしか興味がない。その獲物を表現してしまったらもう興味を失ってしまう。

そして、いつの間にか、自分にしか興味がない人間になってしまいました。

岩下志麻のあのセリフがまた脳裏に甦ります。

「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」

全否定されてしまいました。

吉田喜重監督の著作に、『自己否定の論理 想像力による変身』ってのがありましたが、私がここから新たに飛翔するためには、これまでの自分を自分で全否定せねばならないのでしょう。

誰かにしてもらうのではなく、フィクションにしてもらうのでもなく、自分の手で。

それができれば…道は開けるでしょうか。



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