2019年07月22日

山田太一さんの1979年作品『沿線地図』。今日は第5話・第6話の放送でした。

前回までの記事
①まるで自画像のような
②両親たちのウロウロ


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今回は前回のニアミスから一歩進んで、ついに双方の両親が子ども二人の居所を突き止めます。

最初の感想が「まるで自画像のような」でしたが、今回もそんな感じでした。というか、あまりに自分のことと同じなのでギョッとなりました。

「現実は芸術を模倣する」とはオスカー・ワイルドの言葉。あのときの私はワイルドの名前すら知らなかったけど、存在すら知らなかったテレビドラマを模倣していたのかもしれません。私だけでなく、親兄弟など周りにいる人たちもみんな。それだけ山田太一さんの人間や世の中を見つめる目が冷徹だということでしょう。

一番ギョッとなったのは、真行寺君枝が、

「私たち結局お父さんやお母さんみたいに生きたくなかったのよ!」

というセリフですね。私はあそこまではっきり言葉にできなかっただろうけど、胸の内ではそう思っていた気がします。

ところが、児玉清の言葉にも一理あると思うんですよね。

「じゃあはっきり言おう。おまえは恐いんだ。受験が恐いんだ」

確かに恐かったのかもしれません。合格できなかったらどうしようという気持ちがなかったとは言えない。恐怖を別の言葉で言い換えてもっともらしく装っていただけだったのか、どうか。

しかしながら、児玉清の言葉は頭ではその通りとは思えても、あまり胸に刺さってきません。

逆に、第5話の冒頭で広岡瞬が児玉清に、

「間違ってることをしようと思ったんだよ。人生を狂わせようと思ったんだよ」

と言いますが、あっちのほうが胸に刺さる。もちろん先述の真行寺君枝のセリフも。

私は若者二人の側なのに、親の言葉が胸に刺さらず、当の若者の言葉のほうが刺さってくるというのはどういうわけか。

逆に、親の言葉には苦笑してしまいます。完全に私と同じだと思ったのは、児玉清が、

「こういう生活をしたいなら認めてやろうじゃないか。ただし高校だけは出ておけ。大学にも入っておけ」

真行寺君枝はそれ見たことかと言い返します。

「高校だけは出ておけと言って、出たら大学行けっていうのよ。大学行ったら卒業だけはしてくれっていうのよ。卒業したらいい会社に入れっていうのよ」

私も周りも同じでした。大学に行きたくなければ行かなくていい。ただし高校だけは出ておけ、と。

何とかぎりぎり卒業しましたが、するとすぐに大学へ行けと言う。アホらしくなってそれ以上は言うとおりにしていません。

今日の5話6話で強烈に思い出されたのは「1本のレール」という言葉ですね。広岡瞬と真行寺君枝がそういう言葉を使ったかどうかはっきり憶えてないのですが、そういう意味のことはいいましたよね。あらかじめ敷かれた1本のレールの上を走るだけの人生はごめんだ、と。

私は親にそういうことは言わなかったけれど、親から言われました。

手紙を書いた、と何枚かの便箋が入った封筒を親父から渡されました。そこには、

「平社員から係長、係長から課長、課長から営業部長、営業部長から事業部長、あわよくば重役、そして社長。そういうふうに人生を1本のレールとしか見ていなかった私の落とし穴だったのかもしれない」

なぜか泣きました。いまも書きながら泣いています。

その後、映画の専門学校に行った私が夏休みに実家へ帰ると、母親がこういいました。

「お父さんはあなたに感化されてるところがあるのよ。そういう人生もあったのかって」

私は親父が嫌いでした。いまも嫌いかもしれない。でも、親父が自分に感化されていると聞いても、感じるのは、してやったりの勝利感とは真逆の、何とも苦い味わいだけでした。

なぜそう思うのかわかりません。やっぱり受験が恐かったから、恐いのをごまかして自己欺瞞していたから、そんな自分に感化されるなんて哀れだ、ということなのでしょうか?

わからない。

ただ、はっきりしているのは、大学に行っておけばよかったと思うのは、職探しをしていて高卒だと応募すらできないときだけです。これでよかったのだと思っている。

でも、それも自己欺瞞なのかもしれません。本当はあのままレールの上を走っていればこんなにあくせくせずともすんだと激しく後悔しているのかもしれない。

でも、とも思うのです。

登校拒否を始める直前、1本の映画を見ました。『明日に向って撃て!』。あの愚か者が愚かな最期を迎える映画にあんなに感動したのは、やはり広岡瞬と同じことを思っていたからかもしれません。

「間違ってることをしようと思ったんだよ。人生を狂わせようと思ったんだよ」




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いま『京大変人講座』という本を読んでいます。


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全6章のうち半分しか読んでないんですが、第2章の「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」が異常に面白かったのでご紹介いたします。

著者は、サービス経営学専攻の山内裕准教授。ドキュメンタリー映画『次郎は鮨の夢を見る』で主役としてカメラに収められた鮨屋の親父が少しもサービスらしいことをしていないのに、いやむしろ不機嫌で恐いのになぜか客は満足する。少しも客が減らない。なぜだろう、と思ったのが研究のはじまりとか。

ちょっと前に東京オリンピックが決まる決定打になった「おもてなし」という言葉。あれがサービスのことだと思われてますよね。いまウィキペディアで「おもてなし」を調べてみると、こんなふうに書いてあります。

「おもてなしとは心のこもった待遇のこと。顧客に対して心を込めて歓待や接待やサービスをすることを言う。「もてなし」に「お」をつけて丁寧にした言い方である。自ら考える教育を受けている外国人観光客からはただのおせっかいと思われることがほとんどである」

なるほど、山内准教授が書いていることの精髄がここにほとんど出ていますね。

ただ、なぜ「外国人観光客からはただのおせっかいになる」のか。いや、山内さんが言っているのはそれよりもっと踏み込んで「日本人同士であっても心を込めたおもてなしをされると少しもおもてなしをされた気にならない」という逆説なのです。


客を手取り足取りもてなしてはいけない
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くだんの鮨屋でも、店に入ると、親父はメニューも見せずに(そもそもメニューなるものが存在しない店なんですが)「飲み物はどうしましょうか」と訊き、飲み物が出ると「何かお切りしますか」とだけ訊く。鮨は白身から、という作法があるのを知っているという前提で「何か切りますか」とだけ訊く。ちょっと意地が悪い。しかし、上のウィキペディアの説明にもあるように「自分で考える習慣が身についていない人」つまり多くの日本人はこういう接客態度を不愉快に感じるそうです。「何かお切りしますか」という訊き方には「自分の頭で考えろ」というメッセージが隠されていますから。

山内さんは、スタバの「ショート」「トール」「グランデ」という独特でよくわからないサイズの言い方や、イタリアンレストランのピザやパスタの、どんな料理かまったくわからない料理名に話を移し、このわからなさこそ客の心に「もてなされている」という気分を作り上げると言います。

通常考えられる「提供者側が客を満足させるために、あの手この手でもてなす。それがサービス」というのは実は逆で、そういうサービスをすると逆に客は満足しないという逆説が起こる、と。

その理路は?


奴隷のサービス
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日本のお店はどこでもそうですが、常に笑顔でお客様のために手取り足取りおもてなしさせていただきます! という空気で充満していますが、そんなことをしてしまうと「上下関係」が生じてしまう、と山内さんは言います。提供者側が奴隷になり、客は主人となる。同時に、主人である客はつまらなく感じる。奴隷に承認されたりサービスを提供されても、そんなものは上位に位置する自分には価値がないから。

「提供者側が客を満足させようとサービスすると、その満足は客にとって意味がなくなってしまう」

だから、高級鮨屋の親父も、高級イタリアンやスタバも「私たちのサービスはあなたたちには意味がわからないくらいすごいのだ」というメッセージを発している。それで価値が上がるとか。

山内さんによると「客自身がどう振る舞い、どういう客になろうと努めるか、という要素がサービスにおいてはとても重要だ」ということになるそうです。

このあと、高級店であればあるほどサービスが減るとか、おもてなしを意味する英語「ホスピタリティ」はラテン語の「敵意ある見知らぬ者に対して力をもつ」という意味の言葉が語源で、文化人類学的にはこれは当たり前のことだとかが語られるんですが、興味のある方は本を読んでください。私の興味は以下に。


お客様は神様ではない
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私が思ったのは、「お客様は神様です」という言葉がいまだに大手を振っているこの国の本当の現状について。

よくクレーマーが言うのは「客は神様なんだからもっとサービスしろよ」という言葉。これに対して「お客様は神様です」というのは提供者側がいう言葉であって、サービスを受ける側が言ってはいけないとよく言われます。

これは自分で自分のことを神様だなんておこがましい、みたいな意味で言われますけど、本当は違うことがわかりました。

クレーマーは自分でサービスの質を落としているんですね。

だってそうでしょう。自分の口から「おまえは奴隷である。奴隷らしくサービスせよ」と言って、価値が低く感じられるサービスを自分から求めているのですから。

だけど日本の店はどこでも「お客さんには何を言われても丁重に」という教育がなされているから、クレーマーが求める以上の奴隷になり下がる。クレーマーはますます居丈高になり、ますます価値の低い奴隷になれと要求する、という悪循環が起こっている。

「お客様は神様です」と客が言ってはいけないというのは、決して倫理的な意味ではなく、純粋にもっと価値の高いサービスを受けるために言ってはいけないのです。

そして、提供者側も奴隷根性を捨て去らねばならない。鮨屋の親父やスタバのように「意味がわからない言葉」を発するなどして、自分たちのサービスの価値を低めてはいけないのだ、と思います。

そんなことしたらもっと怒ってしまう?

そうかな。そりゃま店側に問題があるなら丁重に謝罪すべきでしょうが、理不尽なことをしつこく言う客には意見していいと思いますがね。あまりに奴隷根性が沁みつきすぎ。外国人観光客には日本のおもてなしが不評というのもうなずけます。

『王様のレストラン』の千石さんのように、店員をおまえ呼ばわりする客には毅然と、

「私はかつて先輩からこう教わりました。お客様は王様であると。しかし先輩はこうも言いました。王様の中には首をはねられた奴も大勢いる。またのご来店のないことを心よりお祈りしております」

提供者側が上に立てばいいのです。くだらない客を追い返せば、そのほうが店の質は上がる。

おそらく、日本のほとんどの店がこういう「努力」を怠っているのです。下位から上位に這い上がるより、下位に甘んじているほうが楽ですから。

自分たちは客の理不尽な物言いに耐えている、ああ何て健気な……という甘美な物語に溺れてしまっている。

オリンピックまであとちょうど1年。いい機会です。奴隷根性を捨て去りましょうぞ!






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2019年07月20日

昔懐かしい『妖怪人間ベム』。10年前の再放送以来の再見です。

第1話「恐怖の貨物列車」はまだ軽いジャブ程度でしたが、この第2話でもう核心部分へ切り込んでいくんですね。何度も見てるのにあまり憶えてない私。何しろ幼い頃は毎週泣きじゃくりながら見てたので、いまも恐怖に耐えるので精いっぱいなのかも。


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さて、この「階段を這う手首」の骨子は、継母が継子を殺し財産を独り占めしようとするのをベムたちが防ぐ、というものです。

雨宿りした廃屋に殺し屋たちが偶然入ってきてその企みを知るんですが、ここでこの『妖怪人間ベム』を貫く重要な主題について語られます。


ベラ「あー、早く人間になりたいよ」
ベム「ベラ、焦るな。俺たちはいつかきっと人間になれる」
ベラ「あたしゃもう待ちくたびれたんだよ」
ベム「その日が来るのを信じるんだ」



このアニメではオープニングで「早く人間になりたい!」という有名なフレーズがありますし、ベムが上のようなことをこの回だけでなく再三再四言うので、

「妖怪人間として生まれた三人が人間として生まれ変わることを願って世直しをする物語」

というのは誰の目にも明らかです。そして、妖怪人間のほうがよっぽど真人間であり、人間のほうが妖怪や悪魔のような悪い心をもっている、という逆説も。

ただ、子どもの頃からずっと不思議なのです。ベムはなぜ「悪い人間を懲らしめ、善い人間を助ければ人間になれる」と思っているのか。最終回がどういうものかを知っている者としては「早く人間になりたい」「いつか人間になれる」という言葉はとても悲痛なものです。でも、その根拠はいったいどこに?


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上記のベラとのやりとりでも「信じるんだ」と言っている。だから誰かから聞いたわけではない。確証は何もない。はっきり言って思い込みです。

最初、殺し屋たちを成敗しようと三人は合意しますが、ベラだけ合点がいかなかったようです。

「あいつらをやっつけるのが、あたしらの目的とどう関わってくるのかねぇ」

ベラはベムの思い込みに否定的です。いい行いをするかしないかなんて、あたしたちが人間になれるかどうかとは関係ないわよ、と。

何だかんだの末にベラが継母の悪事を防ぎ、気を失わせます。ベラはとどめを刺すべきだと主張しますが、ベムが止めます。悪を根絶するのではなく、悪を善に戻すことが俺たちの役割であり、その役割をまっとうしてこそ人間になれるのだ、と言います。継母に殺されかけた子どもは彼女を本当の母親だと思っており、彼女を傷つけたベロに「嫌いだ!」といいます。

仲良くなった男の子に嫌われるベロという、このあとお約束のようになる結末ですが、このときベムが大事なことを言います。

「おまえのやったことはいいことだ。たとえあの子にどう思われようと、おまえのやったことはいいことなんだ」

お天道様はみていてくれる、というやつですね。

ベムが「神」という存在を想定していることが明らかになりました。「全知全能で造物主である神は俺たちの行いを見て必ず人間にしてくれる」

ベムの「いつかきっと人間になれる日が来る」というのは、だから「宗教」ですね。

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逆に、とどめを刺しちまいなよ、と言ったベラにベムは平手打ちを食らわせるんですが、そのあとくだんの男の子がベロに嫌いだと言うので高笑いします。しょせん人間なんてそんなもんよ、と。ベラは神などいないと主張する無神論者のようです。

しかし、冒頭にも紹介したように、この第2話で真っ先に「早く人間になりたい」と言うのはベラなのです。

ここに、登場人物たちの願いとは別に、作者たちの思想が表れている気がします。

私はかねてから「無神論者なんかいない」と思っています。「神なんか信じてない」という人間にかぎって困ったことがあると決まって神頼みするのをたくさん見てきましたから。

『妖怪人間ベム』の作者たちも同じ思いだったのではないでしょうか。

有神論者ベムと無神論者ベラの対立葛藤を礎にドラマが組まれていますが、ベラも心のどこかで神を信じている。

いや、「信じなきゃやってられない」という気持ちなんでしょう。妖怪人間という異形として生まれてきた者どもの哀しみに彩られた全26話の大河ドラマ。

続きも存分に楽しみたいと思います。







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