2019年06月17日

映画評論家の町山智浩さんの『アメリカの今を知るTV』が2時間スペシャルでプライムタイムに登場! というわけで見てみました。

いつもの本放送はたまにしか見てないので初めて触れる情報がたくさんありました。特に仰天した3点について書きます。


①メキシコとの国境に壁は作れない⁉
トランプが公約に掲げていた「メキシコとの国境に壁を作って不法移民を根絶する」というアレ。アレは絶対不可能なんですって。

なぜなら、メキシコとの国境はリオ・グランデ川で、あまりに蛇行しているために川の上に橋を作れない。(仮に作ったとしても橋があるところでは住民は自由にアメリカとメキシコを行き来している)


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現実には、このように川の手前の部分に壁は存在しているんですが、そこは何と農家の私有地。農家の人も壁の向こうとこっちを行き来するため、どうしてもビッチリした壁を作れず、ところどころ穴が開いてしまう。すべての私有地を買い取れば完全な壁を作ることはできるけど、莫大な金がかかるから現実的には不可能。

さらに仰天するのが、アメリカ人ですらこの事実をほとんど知らないということ。なぜか報道されてないと。日本でも安倍に都合の悪いことは伏せられることが多いし、あちらでも「忖度」がまかり通っているということでしょうか。


②銃社会アメリカの現実
衝撃の事実が語られました。
昨年、銃乱射事件が起こった高校の生徒が自殺したというのです。10何人もの人が死んだのに自分は生き残ってしまったという罪悪感=サバイバーズ・ギルトのせいで。

今年の5月末までで全米で発生した銃事件の件数が何と21686件。死者は5705人。今年のたった5か月間でですよ。

これだけの事件が起き、莫大な人数の被害者がいまも出ているなか、なぜアメリカでは銃規制が進まないのか。それは何と「憲法」にあるというから仰天しました。

合衆国憲法修正第2条
「規律ある民兵は、自由な国家安全にとって必要であるから、人民が武器を所有し、また携帯する権利はこれを侵してはならない」


町山さんの解説によると、「規律ある民兵」とは「反政府ゲリラ」のことだそうです。反政府ゲリラがいないと独裁国家になってしまう。それを防ぐために銃所持を認めているそうです。

ボストン茶会事件を発端に、イギリスはアメリカの民兵から銃を取り上げようとした。それに逆らって独立戦争を起こして勝利し、アメリカ合衆国ができあがった。民兵=反政府ゲリラこそが建国の父だった。父たちがもっていた銃は合衆国国民全員が所持・携帯する権利がある、という理屈だそうです。

昔懐かしい岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』の冒頭、「アメリカを精神分析する」みたいな論考がありました。先住民を制圧して建国した国だから、世界の警察ヅラをして内政干渉したがるのだ、みたいな内容でした。(←かなりうろ憶え)

先住民の虐殺が外交問題を生み、旧宗主国イギリスとの独立戦争が内政問題を生んでいる。なるほど、建国の礎が理由だからこの病根はかなり深いというか、もう治癒不能では? と思わされました。


③コメディアンが政治を茶化す伝統
これはちょっとうらやましいというか、アメリカの健全なところ。

日本よりもよっぽどお笑いが人気でコメディのライブハウスがたくさんある。そして政治を風刺しないコメディアンはコメディアンじゃないとまで言われるとか。

戦慄したのは、2006年に開かれたホワイトハウスの晩餐会。当時の子ブッシュ大統領の前で、登壇したコメディアンがこんなことを言ったのです。


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「私はブッシュ大統領を支持します。なぜなら、彼はアメリカが攻撃されたときちゃんと反撃してくれるからです。世界一わざとらしいヤラセ写真によって」

ゲボッ! すげーー!

こういう懐の深いところはアメリカ独自の伝統というより、ヨーロッパの宮中の伝統らしいです。

シェイクスピア劇にもよく出てくる宮中道化師。国王に向かってたった一人だけタメ口を利いてもいい人物。王様を茶化すことで相対化し、諭す役割があった。

その伝統がいまも残っているのはいいと思いましたが、トランプは一昨年、昨年と続けてこの晩餐会を欠席しているとか。なるほど、建国以来、もっとも懐の深くない人物が大統領になってしまったのですね。

というわけで、かなり盛りだくさんな2時間でありました。またやってほしいです。




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2019年06月15日

ずっと書く書くと言いながら書くに至らない日々が続いていましたが、ようやく本腰を入れて考えるようになりました。新作シナリオ。

最近は、あまり周りに「書くぞ!」と宣言することが少なかったので(ネット上ではたまに言ってるけど)やっぱり実際に見知っている人に宣言しなくちゃ、と思い、前の職場の人たちに「こんなシナリオをやり始めました」と言いました。これでもう石にかじりついてでも書かねばならない。背水の陣。

基本アイデアは当然秘密ですが、主人公が女性なのです。女性のほうがテーマがより深まると思ったからですが、どうも「男が女を主人公にしてなぜ書けるのか」みたいなことは前々からよく言われるし、前の職場の人たちとは今度ランチに行くんですが、そのときにおそらく聞かれるだろうから、先に書いちゃえ、と思って書きます。


なぜ性別だけを特別視するのか
確かに男は女のことがわからないし、女も男のことがわからないのでしょう。

しかし、それを言ってしまったら、私にはいまどきの中高生のことはわからないし、70歳、80歳の老人の心境なんてもっとわからない。人を殺した人の気持ちもわからないし、不倫バッシングを受けた人の気持ちもわからない。両親がいまだ健在なので幼いころに死別して施設で育った人の気持ちなんて逆立ちしたってわからない。

なのに人は「性別」だけを特別視しすぎなのです。「男と女はわかりあえない」という意識をもちすぎ。


男は男のことがわかるのか
男が女を主人公になぜ……という人は「同性のことならわかる」ことを前提にしていますが、それもおかしい。

よく「男って○○だから」とか「女って××なんですよ」みたいなことを言う人がいるけれど、それは「自分はこうである」と言っているだけでしょ?

日本人だけに限っても、男も女も6000万人くらいいるんですよ。みんな同じなんですか? まさか! 一人一人違うというのは作家たる者なら基本的にもっていないといけない認識でしょう。

だから想像するしかない。自分がこういう境遇ならどうなるか。この人物がこういう出来事を前にしたらどういうリアクションを起こすか。

男が女を主人公になぜ……という人は、想像力の力をほとんど信じていないのです。


「男は男」「若者は若者」は誤り
同様に、男の中には男だけが存在し、女の中には女しか存在していないという誤りも犯していると思う。

男の中にも女性的なものがあるし、逆もまたしかり。若者の心にも来たるべき老人の心の萌芽はあるはず。それに耳を澄ませて自分ではないもう一人の自分の声を聴くことができれば書ける。


キャラクター描写に「主役」も「脇役」もない
男が女を主人公に……という人は、なぜか異性の脇役を描くことに関しては少しも疑問をもたないんですね。これもおかしい。

純粋にキャラクター描写に関していえば、主役だろうと脇役だろうと「その人物ならではの言動」を描写するという意味においては、作家がやることはまったく同じです。誰が主役で誰が脇役かというのは「誰を軸にしているか」という物語全体からくる考え方であって、キャラクター描写というディテールに関しては両者は同じ。もし異性を主人公にしたら書けないという人がいたら、異性の脇役も描けないことになります。


というわけで、頑張ります。






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2019年06月13日

このところ、『さよならくちびる』『アナと世界の終わり』など音楽映画・ミュージカル映画と縁が深く、どちらも大いに楽しみましたが、またも音楽映画の傑作と出逢いました。

ブレット・ヘイリー監督『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』


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さりげない描写
父と娘の「バンドではないバンド活動」を描くこの映画は、何より「さりげない描写」がいいと思いました。

・人種
亡妻は黒人。だから娘は白人と黒人の混血。でもそのことに少しも触れない。映画なんだから見ればこういう家族とわかるだろう、ということでしょう。

・娘の同性愛
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娘は学校のある女の子と同性愛の関係にあるんですが、そのことにも声高に触れない。父親に「彼女がいる」と告白してもショックを受けるでも怒るでもなく、「そうか」という素っ気ないリアクション。あの素っ気なさが素敵。

・省略
最後の省略が顕著ですかね。
バンドを組んで動画が人気になったりもするけれど、さらなるバンド活動に乗り気の父親に対し娘はあくまでも医者志望。でも最後の店でのライブを経て「私が残りたいと言ったら?」という娘を父親はただ厳しく見返すだけで、次のシーンには遠くへ引っ越した娘とメッセージのやり取りをしている。「残っちゃだめだ」「どうして⁉」とか何だかんだの愁嘆場みたいなのをやってもいいでしょう。むしろ、大事なところを逃げていると偉い脚本家の先生は怒るかもしれません。でも私はあれでいいと思う。この映画はあくまで歌が主役。人間同士のセリフのやり取りなど邪魔になるだけ。そんなのは省略してすぐ次の歌に移ったほうがいい。


『ナタリーの朝』とは似て非なる
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かつて『ナタリーの朝』という映画がありました。家を飛び出したナタリーという少女が、一人暮らしを始め、そこで出逢った階下に住む男性と恋に落ち……という物語。

『ナタリーの朝』の要諦は、恋愛関係、つまり心理的に水平関係にある二人を、階上と階下に住むという物理的に上下関係に置いたことにあります。こうすることで映画内世界が立体的になっていました。

『ハーツ・ビート・ラウド』ではどうだったか。『ナタリーの朝』のような物理的な上下・水平関係というのはありません。(やはり『ナタリーの朝』はひとつの発明をした一大傑作だったのか)

その代わり、二人はバンドメンバーとしては対等だから心理的に水平関係ですが、親子なので同時に上下関係でもありますよね。ただ、ここで肝要なのは、普通なら上であるはずの父親のほうがほとんど下に位置していることです。娘のほうがしっかりしていて、父親は子どもみたい。いつまでも亡妻のことが忘れられず過去に囚われている父親に対し、娘は未来を見据えている。

かと思えば、最後のライブでろくに練習してない歌をやろうと父親が言い出すと、まだ若く失敗を恐れる娘は物怖じする。「思い切って行くぞ」と娘の尻を叩く父親は、ここでは完全に上です。前述の「残りたいと言ったら?」というときも上から諭したのだろうし、この親子は、どちらが上かはっきりしない、流動的関係にあります。そこが面白い。

『once ダブリンの街角で』なんかは、主役の男女が恋仲になるからか(恋仲といっても単純じゃないんですが)ずっと水平関係に位置していたように思います。(←うろ憶え)

『ハーツ・ビート・ラウド』は主役の二人を常に上下関係として捉えるんですが、どちらが上位かはその都度変わる。娘は思春期だから揺れ動くのはわかりますが、父親をも揺れ動く子どものようなキャラクターに設定して描写しきった脚本チームの勝利でしょう。役者さんもよかった。芝居もいいけど、面構えがいいし、あのひげが何とも言えない味わい。

素晴らしい映画でした。(それにしてもテッド・ダンソン、歳食いましたね)


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