2020年07月12日

『逃げるは恥だが役に立つ ムズキュン特別編』もついに今日が最終回でした。


前回までの記事
逃げ恥の経済学①贈与と返礼(給料前払いとよけいな家事労働)
逃げ恥の経済学②炊き込みご飯とぶどう(藤井隆の役割)
逃げ恥の神話学①星野源を救い出すヒーロー・新垣結衣
逃げ恥の経済学③と神話学②カラダを贈与するガッキーと返礼しない星野源


恋愛劇に経済観念をもちこんだのが斬新だった『逃げ恥』ですが、最初の記事の冒頭で書いたように、私は初放送時、最終回に違和感を覚えてしまったんですよね。みんなが絶賛するようには面白いと思えなかった。

でも今回はめっちゃ面白かった。

その原因は、以前は「経済」にしか目が向いていなかったのに対し、今回は「神話」の面がちゃんと見えていたということでしょうか。比較神話学を援用してシナリオを書いていたくせにこの体たらく。。。

それはさておき、最高だった第10話と最終話の感想を述べましょう。


経済学(搾取のない結婚などありえない)
nigehaji1

第9話のラストで、お互いがお互いを好きだという気持ちを確認し、一夜を共にします。

そして、二人が本当の夫婦でないと知った古田新太がリストラ対象者として星野源をリストアップするところで幕を閉じました。

第9話では、優秀なシステムエンジニアである星野源は再就職先には事欠かないまでも、どうしても収入減は避けられない。そこで本当は家事労働者である新垣結衣を法律上の妻として迎え入れる、つまり、入籍しましょう、とプロポーズするわけですが、それは「好きの搾取です」とガッキーは逃げてしまう。

初放送時、私はここにまず違和感をもちました。なぜなら「資本主義に搾取はつきもの」だからです。

ある労働者の労働力を金銭に換算した額をAとします。彼に支払われる賃金をBとします。すると、必然的にA>Bとなります。A=Bとはなりません。もしそうなれば雇用主の食い扶持がなくなるし、新たな設備投資などもできなくなります。AとBをイコールで結びつけたければ、

A=B+C

とならざるをえません。このCが労働者が搾取される金額です。Cがない以上資本主義は成り立ちません。だから、結婚を経済活動ととらえる『逃げ恥』的世界観でいえば、「搾取のない結婚生活などありえない」ということになります。

逃げ恥の経済学①贈与と返礼(給料前払いとよけいな家事労働)の記事で書いたように、このブログのシリーズの文脈に照らし合わせれば、Cというのはおそらく「贈与」です。

労働者は資本家に「搾取」されているのではなく、あらかじめ贈与している。それに対して資本家は賃金という名の「返礼」をしている。

資本主義を資本家による搾取としてではなく、労働者の贈与から始まる健全な経済活動と捉える、というのがこの『逃げ恥』独自の哲学だと今回初めてわかりました。

以前の稿を読んでいただければわかりますが、ガッキーと星野源はずっと贈与と返礼を繰り返してきました。返礼ができずにクライシスに陥ったときもあった。でも、基本的にこのカップルは原始時代の沈黙交易のように、純粋な想いが根底にある。

その純粋さを星野源は汚してしまった。汚れちまったガッキーは逃げるのが筋です。ここに違和感をもってしまった私が間違っていたわけです。


経済学(青空市)
ガッキーは真野恵里菜からの頼みもあって、地域の商店街の青空市を提案し、その手配をすることになります。

これはもう完全に「贈与」ですよね。「私がやりますよ」という贈与(=供給)。その贈与に対して最低賃金という名の「返礼」が行われるんですが、ガッキーにはそれが物足りない。

「給料払ってるんだからやって当たり前だろ」などと言われてはムカつくのも当たり前。そんなことを言う人間はきちんと「返礼」していないことになります。

ガッキーは「愛情」という言葉で表現しますが、要は気持ちですね。「対価を払ってるんだから働くのは当たり前」。それでは経済は立ち行かない。

給料払ってるんだから働け。
働いてるんだから給料よこせ。

そんな殺伐とした職場で働きたい人間はいないでしょう。でもいまの日本ではこういう考え方が横行しているような気もする。(だからこそ、アンチテーゼとしてこの『逃げ恥』という物語が語られる必要があったのでは?)

そして、「会社も夫婦も同じ」というのがこの『逃げ恥』の独創です。

とはいうものの、それまで賃金がもらえていたのに結婚した途端、同じ労働をしているのに無給になる。それはいや。気持ちはわかる。

でも、恋愛とか結婚をそういうふうに捉えること自体がどうなんだろう、と思うのもまた事実。


『アンナ・カレーニナ』
話はガラッと変わって、この『逃げ恥』は途中からトルストイの『アンナ・カレーニナ』のように、二組のカップルを対比させて描くことでメインプロットを深める話型をとっています。(この世のラブストーリーの大半は『ロミオとジュリエット』か『アンナ・カレーニナ』のパクリです)

初見時は石田ゆり子と大谷亮平の恋愛劇がガッキー&星野源のカップルにどう関わってくるのかまったく見えていませんでした。


nigehaji4

大谷亮平に猛アタックする内田理央は、もう49歳の石田ゆり子の年齢をあげつらって攻撃しますが、我らが石田ゆり子はこんな痛快な返しをします。

「あなたがいま否定したものに、これからあなた自身がなるのよ。自分の未来がなりたくないものだなんて悲しくない? そんな呪いからはいますぐ逃げてしまいなさい」

ガッキーは家事労働とタウン誌のライター職と青空市の世話役の三足の草鞋に疲れはて、

「家事はそれぞれが勝手にやればいいんじゃないですか。だから私が食事作らなくても掃除しなくても文句言わないでください」

と風呂場に閉じこもってしまいます。


神話学(ヒーロー⇔アンチヒーロー)
このときのガッキーは完全にダークサイドに堕ちてしまっています。かつては星野源がダークサイドに堕ちたアンチヒーローだったのに、いまはガッキーのほうがアンチヒーロー。

だから今度は星野源がヒーローとしてガッキーを救い出してやらねばならない。

彼は風呂場の扉を介してやさしい言葉をかけます。ガッキーの心は開きかけますが、まだ完全ではない。

それが青空市本番の日……


呪い
nigehaji2

第1話から自分のことを「小賢しい」と言っていたガッキーに対し、星野源は当たり前のように言います。

「小賢しいって上から目線ですよね。僕は一度もみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったことありません」

ガッキーの自虐的な「小賢しい」はまさに石田ゆり子の言う「呪い」だった。星野源の「俺はプロの独身」というのも「呪い」だった。

呪いから完全に解き放たれたガッキーは素直な気持ちで「大好き!」と言います。あの新垣結衣の笑顔の何とかわいらしいこと。

そしてサブプロットがメインプロットに絡んできた瞬間の何と気持ちのいいこと。


神話学(共同ヒーロー)
nigehaji3]

ダーツゲームを借りて二人の行く末をあれやこれやと描いてましたが、二人はこれから何があっても「共同ヒーロー」でいればいいと思う。共同経営者ではなく。

生活していればいずれどちらかがアンチヒーローとして転落する。そしたらもう一人が救い出せばいい。二人ともがアンチヒーローにならないよう気をつけていればいい。

もしかすると、アンチヒーローに転落すること自体が「贈与」なのかもしれない、という気もしてきました。

資本家による搾取を悪として捉えず、労働者からの贈与だと捉えるように、ダークサイドに堕ちることも相手への「贈与」と捉えてみる。

自分が転落することで、もう一人が「ヒーロー」として屹立する場を贈与している。贈与された者は二人の仲をより強固にするという「返礼」をする。それを何度も繰り返して本当の「夫婦」になる。

経済と神話。

二つのまったく違う側面から見てきたこの『逃げ恥』ですが、意外なことに二つが密接に絡まっていたのでした。このからくりに気づけなかった初見時の自分を恥じます。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年07月11日

『アリー/スター誕生』を超えたとかいうキャッチコピーは何か怪しかった。だって、あの映画、たいしていい映画だと思えなかったから。


wild-rose3

でも嘘ではなかった。どころか最後は滂沱の涙。いや~、ごっつぁんでした。(以下ネタバレあります)


手持ちカメラ問題
最近の、特に低予算映画の流行である手持ちカメラがこの映画ではあまり見られなかったことがまず好もしいと思った最初の点。

確かに手持ちで撮っているところもあるけれど、まぁまぁ意味のある手持ちというか、三脚にカメラを据えてしっかり撮ったカットと手持ちのカットを無造作につなぐという監督が何も考えていない昨今の映画とは一線を画していると思いました。

個人的な好みを言わせてもらえば、もっと「ここぞ」というところだけにしてほしかった。でもカメラに関してイライラさせられることが少なく、落ち着いて見ることができました。


主人公の服役理由
wild-rose1

冒頭、刑務所を出所するところから始まりますが、いったい何の刑で入っていたのか少しも示されない。タグを付けられているというセリフがあったので、イギリスだから性犯罪なのかな、と思っていました。

でも、なかなかどういう理由でかは示されないまま後半へ。そして初めて明かされたのが「麻薬をやって、子どもたちの部屋にクスリを投げ入れた」と。うーん、予想とはぜんぜん違ったけど、えらく引っ張ったわりにはたいしたことのない罪でした。あれなら最初のほうでばらしていても別段問題はなかったと思う。


「君の伝えたいメッセージは?」
wild-rose4

ジェシー・バックリー演じるローズリンという女性はカントリー歌手として世に出ることが何よりの夢で、映画が始まってからずっと音楽の聖地ナッシュビルを目指します。

貯めたお金でいこうとするも金や荷物を盗まれ帰郷。

次は友人がパーティを開いてくれてそこで歌って彼女の歌に投資してくれることになる。そこで過去の罪のことについてその友人の旦那から脅迫まがいのことを言われてしまい、まったく歌えなくなって頓挫。

次は、パン屋に20年勤めて貯めたお金を母親がポンと渡してくれる。「私は遠い世界のことを知らない。未来を見てきなさい」と、それまでの頑固ママがウソのように主人公の夢を叶えてくれる。

で、ナッシュビルに行くも、カントリー博物館みたいなところをめぐって、そのあと誰もいないステージで歌っていると入ってきたバンドマンたちがバック演奏してくれる。でも彼女が歌っているのは既製楽曲。

著名なプロデューサーから彼女はこんなことを言われていた。

「歌唱力は抜群だ。でも君の伝えたいメッセージは何なんだい?」

絶句してしまうローズリン。楽器は何もできず、作詞も作曲もせず、ただ既製楽曲だけを歌ってきた日々。

これには私も身につまされました。

撮影所を辞めて脚本家を目指し始めたばかりの頃、ある著名な脚本家に自作シナリオを送ったんですが、感想が来たのには狂喜乱舞したものの、

「あなたのシナリオは技術的にはとてもよくできています。でもあなたの体臭が感じられません。もっと自分の個性を出すようにしてください」

ローズリンとまったく同じことを言われてしまったわけです。

そしてこんな呆然とした顔になった。


wild-rose4

彼女はナッシュビルをあとにして故郷のグラスゴーに帰ります。え、ここで終わっちゃうの⁉ んなアホな。

と思ったら、舞台は突如「1年後」へ。

歌う以外に何もできなかったローズリンが何とギターをもっている。必死で憶えたんですね。そして歌うのは自分が作詞(おそらく作曲も)したであろう楽曲。

「すべてを捨てて夢を追おうとしたこともあったけど」

みたいな歌詞のあとに彼女の渾身の「メッセージ」が歌われます。

「ここが一番。故郷が一番」

歌うべき何のメッセージももたないくせにナッシュビルしか眼中になかったローズリンが紆余曲折の末に出した「人生の結論」はとてもありきたり。でも大事なのは結論ではなく、そこに至るプロセスのほう。

おそらくあの歌は歌としては凡庸なものだと思う。でも、自分の夢しか考えていなかった女の子が故郷が一番と母親と子どもたちに向かって歌う、というバックグラウンドを知ったうえで聴くとさめざめと泣くほかありません。


wild-rose5 (1)(めっちゃ楽しそう)

そしてジェシー・バックリーの歌唱力が半端じゃない。レディ・ガガを超えたといっても過言ではないでしょう。

素敵な映画をどうもありがとうございました。


Wild Rose
Original Soundtrack
Island
2019-04-11





  • このエントリーをはてなブックマークに追加
WOWOW製作、岡田惠和さんの脚本によるリモート撮影ドラマ『2020年五月の恋』を見たんですが、うーん、やっぱり私はこういうのは面白いと思えません。(以下ネタバレあります)


o1080050114771652260

別れた夫婦の夫(「元夫」と書いて「もとお」という名前なのは笑いましたが)のほうが間違いなのかそれともわざとなのか、元妻に電話をかけてしまったことから二人のあれやこれやが始まるんですが、やっぱり最初から最後まで画像のように二人が分割画面でしか登場しないというのは致命的じゃないでしょうか。

これはテレビドラマであって映画ではないけど、

「映画とはつまるところ、人と人が出逢うことである」

という蓮實重彦の言葉があります。テレビドラマだって映像作品なのだから同じでしょう。

もともと出逢っていた二人がいまは電話で声だけをやり取りしている。吉田羊の芝居が絶妙で、泣きの芝居などグッとくるシーンもあるにはあるんですけど、どうしても二人が直接出逢わない、触れ合わない、触れ合いたいけど触れ合えない、などの微妙な心理の綾を表現するには声のやり取りだけでは無理があります。

ラスト、どうやって幕を閉じるのかと思ったら、救急車の音が近づいてきて、二人とも同じ音を聞いている。もしや! と思ってベランダへ飛び出すと、向かいのマンションなのか、隣なのか上か下かわかりませんが、二人は意外に近いところに住んでいたことが判明して終幕。

うーん。。。


rectangle_large_type_2_01a21525cdeec61fdf35ad37b061ed7e

結局、最後まで二人はこういう感じですよね。心理的にはかなり近寄ったし、作品世界内では物理的にも近いことがわかるんですが、映像的にはそっぽを向いたまま。どうしてもフレーム外の「出逢い」をそのまま映してしまうと「リモート撮影」ということにならない。

この二人はもともと出逢っている仲ですが、映画史では、まったく出逢っていなかった二人が最後で出逢う作品があります。

『街角(桃色の店)』『ダイ・ハード』『(ハル)』など。

『2020年五月の恋』における二人は最後に物語の「意味」的には出逢う(再会する)ことになるんですが、結局それが物理的に描かれないことに憾みが残ります。

蓮實重彦の講義を受けた黒沢清監督は、ある映画を見てくるように言われ、次の週に「何が見えましたか?」という、見えたものだけを答えなければ叱責される講義に一番衝撃を受けたそうです。

『2020年五月の恋』で、作中人物二人の出逢いが「見えた」でしょうか? 

もうリモートとかそういうことにこだわらずに、二人が抱き合うところまで撮っちゃったらよかったのでは? というのが偽らざる正直な感想です。


関連記事
『リモ止め』などリモート撮影作品を見て思ったこと







  • このエントリーをはてなブックマークに追加