2019年11月11日

いつもは映画の時間的構成を研究するために時間を計りながら見る私が、ついに最後まで時計を見なかったハードボイルド映画『ブラック校則』、思う存分楽しみました。(以下ネタバレあります)

今朝感想を書いた『メランコリック』や最近の映画は邦洋関係なくグラグラ手持ちカメラが多くて辟易するしかない今日この頃ですが、この映画はちゃんと三脚にカメラを据えて、さほど動かさずに撮っているのが好印象。

しかも編集が絶妙なまでにうまい。特にシーンの終わり。余韻を残したくてカット尻を長くしたくなるようなところでも容赦なくスパンっと割って次のシーンに行くからテンポがいい。

かつて専門学校で編集をやっていた頃、監督が「もっと余韻を」と言ってばかりで、「いや、短く割ったほうが余韻が出る場合もある」といくら言ってもわかってくれませんでした。

『ブラック校則』は人物の感情に流されず、語るべきことだけを語り、見せるべきことだけを見せてくれる。この映画が「ハードボイルド映画」だと思うのはこの意味においてです。


まるで大島渚のような
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最近、瀬戸内寂聴先生の『97歳の人生相談』という本を読んだんですが、「青春は恋と革命」というフレーズがたくさん出てきます。この映画がまさしく「恋と革命」の映画だったので何とも胸が熱くなりました。

大島渚の初期作品に似てると言っては大げさかもしれませんが、でも、『愛と希望の街』や『青春残酷物語』に通底しているものがあると思います。まったく真逆の苦い結末に至る『日本の夜と霧』にたぎっていた政治と革命に賭けた青春の熱き血潮とも相通じるものがある。


ブラック校則についての映画にあらず!?
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この映画の何よりの勝因は、劇中で扱われるブラック校則を「地毛が茶色でも黒く染めるか、地毛証明書を提出すべし」という一番有名なアレたったひとつに絞ったことですね。

いろいろ取材したら「こんな変な校則もある」「こんなえげつない校則もある」とレアな校則が出てきたんじゃないかと推察します。たぶん周防正行だったらそういう蘊蓄ドラマにしてしまったと思いますが、この映画の脚本家・此元和津也さんとその他プロデューサーや監督はそうしなかった。素材の新鮮さ・珍奇さよりドラマの充実に賭けた王道的な作劇が素晴らしかった。

この映画はタイトルどおりまさにブラック校則がらみのあれやこれやの事件が起こって最後に革命にいたる物語なわけですが、ブラック校則そのものよりも、そのような校則が罷り通っている学校の中での「政治力学」に的を絞っていて、とてもよかった。

政治力学とはつまるところ学校内の権力闘争の形を借りた「人間ドラマ」のことです。この映画を見れば人間が「政治的動物」であることがよくわかります。


権力をめぐる人物像
・でんでん、ほっしゃん。が演じる、学校内の秩序を保つことを目的と考えている「体制派」の教師たち。
・教師の中でも剣道部の顧問のように被支配者寄りの人間もいる。
・ほっしゃん。の体罰動画を撮影し、陰の権力者になるミチロウ。ミチロウに付き従うことで権力のおこぼれをもらっている二人の腰巾着。
・ブラック校則のせいで退学寸前まで行く希央(まお)という少女。自由のためなら現在も未来も捨ててもいいというやさぐれ特攻隊タイプ。
・希央の友人の外国人たち。彼らはこの国で冷遇されてきたため希央の気持ちがよくわかる。この外国人の存在はでかい。日本の学校の問題だからと日本人だけ出さず、自然とアメリカに隷従する日本の姿も浮かび上がる仕掛けになっています。
・希央に惚れたのがきっかけで革命を成就させる主人公の創楽と、創楽の親友で「面白ければ笑うよ(だから嘲笑はしないよ)」がモットーの中哉。

以上のような人物が織りなす政治力学=人間ドラマなんですが、何より素晴らしいのは、それぞれの人物の説明や人間関係の変化、ドラマの深化を「校舎の壁」たったひとつで見せたことですね。


校舎の壁ですべてを見せる!
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最初は「farewell dear M」とだけ書かれた落書きが、新たな落書きを次々に呼び寄せ、画像のような落書きに発展するんですが、自由を渇望する創楽や中哉に同調する者もいれば、彼らを嘲笑する者もいる。

嘲笑というのは「マウンティング」ですよね。どもる生徒を嘲笑うのもマウンティングのひとつでしょう。でも中哉はそれだけは絶対しない。最初に「farewell dear M」と書いたのは中哉ですが、マウンティングしてくる奴にさらなるマウンティングは絶対しない。

本当は誰もがブラック校則の理不尽さを身をもってわかっているはず。だから最初から全員主人公の味方。本当はマウンティングなどせず同調したい。でも人間はそんなに正直ではない。

先日読んだ池内紀さんの『ヒトラーの時代』では、多数派でなければ安心できない普通の人たちがナチスを支えた、と主張されていました。

『会社員でぶどり』ではブラック企業の論理にからめとられ社畜になることが「多数派」でそこに安住し、会社に文句を言いながらも隷従することのバカバカしさが告発されていました。

『ブラック校則』でも事情はまったく一緒ですね。誰もが最初から主人公や希央の味方なのに、少数派になることをおそれて彼らを排斥しようとする。そして、誰もが「いまどっちが多数派か」を計算している。創楽と中哉が多数派と見れば一気に宗旨がえするつもりなのでしょう。それが人間だよという徹底したリアリズム。厳しくて図太い映画だと思います。

そんなあれやこれやを「校舎の壁」だけで見せる潔さがとてもよかった。

最近の映画やテレビドラマでこういう話をやるなら、LINEやツイッターでやり取りされる言葉が画面を埋め尽くすとか、あるじゃないですか。ああいう手垢にまみれたことをせず、しかもSNSでどうのこうのというセリフすらない。実際は生徒同士でものすごいやり取りがなされているはずなのに、それを全面カットして校舎の壁ひとつに賭けた。これはすごいことだと思います。

しかも、校舎にこっそり落書きする生徒を教師が見つけそうになって……とか、そういうサスペンスもいっさいなし。メインテーマに関係ない描写には目もくれない態度には喝采を贈りたくなりました。


暴力を全面否定する「現代映画」
クライマックスは、希央の退学をめぐる職員会議を止めようと主人公が火災報知機を鳴らし、すべての生徒と教師が校庭に集うなか、ほっしゃん。が向かった放送室には「剣道未経験の剣道部顧問(主人公たちの担任」)が胴着を着て待っている。

ここは、おお! あのいかにも弱そうな担任がほっしゃん。を撃退してくれるのかと期待が高まりましたが、そうはならないというか、それを許さないのが少なくともいまの日本の現状なんだな、と。

私は「暴力が必要なときもある」というのが基本スタンスですが、それでは暴力を嫌ういまの観客には受け入れられないと作者たちが考えたのかどうかは定かじゃありませんが、担任はほっしゃん。にやられてしまう。代わりにミチロウがもっている動画が決め手となって革命は成功する。いまの時代に暴力革命はダメだよ、ということでしょうか。ここはちょいと複雑。

ところで、でんでんに対して緊張しまくって何を言うのか忘れたという創楽に「がんばれ、創楽!」という声がかかりますが、あれが誰が発した言葉なのかを明らかにしないのもいいですね。

だってあれは生徒全員の声だから。特定の誰かの声ではない。


ひとつだけ疑問点
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革命のあとは全員で仮装ということになります。どうしてこうなるのは見ていただくとして、みんなで校則違反というのはどうなんですかね。

多数派に安住するな、というメッセージを読み取っていた私はちょいと戸惑いました。このシーンでは「仮装してこない人間」のほうが偉いんじゃないの? と。

ん? そういえば、このシーンで希央が髪の毛を部分的に赤く染めてましたが、制服や顔面に文字を書いたりはしてませんでしたっけ? 見落とした。もしそうなら、希央こそが偉い! ということなんですね。しかし見落としたのは痛恨のきわみですばい。

脚本家の此元和津也さんも監督の菅原伸太郎さんも名前すら知りませんでしたが、これから要注目の才人と感じました。

素敵な映画をどうもありがとうございました。


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『ヒトラーの時代』と『会社員でぶどり』







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2019年の『カメ止め!』と言われるほどの話題作と聞いた『メランコリック』を見てきました。(以下ネタバレあります)

「殺しの場としてやくざに貸し出しされている銭湯」という設定がやたら面白そうでしたが、うーん、『カメ止め!』が面白いという人の感覚はわからなくはないけど、この映画の面白さは少しもわかりませんでした。設定を活かしきれていないというか。


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カメラマンは何をしていたのか
いまや手持ちカメラばかりでグラグラゆれてばかりという映画はとても多いので、ちゃんと三脚立てろよ! と思うことはあっても驚くことはなくなりました。

しかし、この『メランコリック』のカメラには驚きました。いくら手持ちでもゆれすぎ。

ゆれるうえに、意図的に動かすところでも動かしすぎ。例えば銭湯の店長がやくざの田中の事務所でオムライスを食べる場面。店長の顔や手の動きに合わせてパンダウンしてまたパンアップするんですが、あんなせわしない見せ方をするくらいなら、最初から引いた画にしてフィックスで撮ればいいだけでは? 

この監督やカメラマンはカメラを動かさないと安心できないんでしょうか。ピン送りのショットでもピントがぼけたり、何であんなのにOK出してるんだろう。ありえない。以前、うちの父親が写真スクールに通っていましたが、いくらいい素材、いいアングル、いい光具合で撮っても、ピントが合ってなければその時点でアウトだそうです。映像にとってピントを合わせることは大前提中の大前提。金をとって見せる作品でピントが合ってないなんて話にならない。金返せと言いたい。


彼女の使い方
・「東大卒」という設定がなぜ必要なのかわからない。
・いきなり殺人現場を目撃して大ピンチの主人公を店長は「殺すな」といって掃除を手伝ってもらうことにするが、雇ったばかりの人間をなぜ信用できるのか。
・いくら破格の報酬をもらったとはいえ、死体を燃やしたり、生々しい血を洗い流したりしたあとで安眠できる主人公に共感できるわけがない。
・警察に行こうかどうしようか悩む場面がまったくないので、ただの「変な人」になってしまっているのではないか。
・殺しの仕事をしてきた松本君が、ぜんぜんそんなふうに見えない。逆にそれが「リアル」ということ? しかし殺しの仕事をしている人間を知ってる観客なんかいないんだし、そんなところにリアリティを求められてもこちらには伝わらない。

などなど、いろいろとわからないことやつまらないことがあるんですが、私は「彼女の使い方」が一番の疑問でした。

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主人公を銭湯のバイトに誘って、殺しの現場として貸し出されていると主人公が知ってからはまったく風呂に入りに来ないから、この女の子は実は店長とグルなのか、もしや田中ともグルなのかと思いましたが、ぜんぜんそんなことはなし。

それなら、彼女が銭湯に来るが「ここの風呂に入っちゃダメ」と主人公が止める。理由を聞いても答えられない。それで彼女もこっそり探って殺しの現場を目撃してしまい、小寺君か松本君に殺される、という展開はどうでしょうか。

主人公は、彼女が自分のせいで死んでしまった、だから田中を殺す! というふうに、松本君に誘われて殺しに行くんじゃなくて、逆に自分から松本君を巻き込んだほうがよっぽどドラマが高まったんじゃないかと思いました。

最後に、彼女が頻繁に銭湯に来ていたのは水、電気、風呂のいずれかが止められていたから、と言いますが、ということは、主人公がやばい仕事に手を染めてからは滞納してなかったから来てなかったってことですよね。でもそれは完全に「作者の都合」です。


やっぱりカメラが……
実家の場面は全部食事シーンで同じアングル、同じ人物配置。違うのは献立だけ。早撮りのためにはいい方法ですが、それなら銭湯や田中の事務所でも同じアングルで撮ってルックを統一してもよかったんじゃないですかね?

限られたアングルだけで淡々と語られるほうが、物語の異常さ、怖さがより伝わったんじゃないでしょうか。

やはりカメラを動かしすぎなんですよ。


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2019年11月10日

横尾忠則現代美術館で開催中の「自我自損展」に行ってきました。


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作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。

タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。

「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。

以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。

つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。

「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。

その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。


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今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。

2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。

――今回のコンセプトは何ですか?

「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」

素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。

腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。

「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」

一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。

「自分の作品の解説はしたくありません」

そりゃそうでしょう。

幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。

ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、

「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです

別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。

その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。

横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。

「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」

その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。

映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。

私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。

「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。






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