聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ピエール瀧の「ドーピング」について

コカイン使用と所持の疑いで逮捕されたピエール瀧について、昨日の『ワイドナショー』で松本人志が言っていた「ドーピング」について考えてみました。


松本の語る「ドーピング」
MatsumotoHitoshi

こんなことを言ってましたね。

「作品に罪はないという人が多いけど、僕は罪がある場合もあると思う。もし瀧さんがコカインをやっていたおかげでああいうすごい演技やいい楽曲を作れていたとしたらドーピングじゃないですか」

なるほど、スポーツ選手がいい成績を出すために筋肉増強剤や興奮剤を打つのと同じだと。

私は「ピエール瀧の行為がドーピング」という主張に反対はしません。しかし、その前に「ドーピングとは何か」を考えてみましょう。


ラウール・ゴンサレスの「ドーピング」
raul

レアル・マドリードの元主将で「スペインの至宝」と謳われたラウール・ゴンサレスは、一時期「低酸素の部屋で寝ている」と話題になりました。

低酸素の部屋で寝ると、少しでも体の隅々まで酸素を行き渡らせるために赤血球の数が増加するそうです。そのおかげでバテにくくなるとか。

「それはドーピングではないか!?」という声も上がったそうですが、結局うやむやに終わり、ラウールがお咎めを受けることはありませんでした。つまりルール違反とは言われなかった。

ルール違反ではなかったけれど、私はラウールの行為は「ドーピング」だと思います。

なぜなら、プレーの質と量を向上させるためという目的を達成するために、自分の体を手段にしているからです。


カントの「定言命法」
カント哲学に定言命法というものがあります。

「汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように注意せよ」

簡略化して「自己と他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と書いてある本もあります。

「ドーピング」というのは、だから、自分の体を手段としてのみ扱う行為だからダメだと思うんです。決して「それがルールだから」ではなく。コカインが合法の国があり、日本でもかつては覚醒剤を合法的に売買していたのだし、時代や国によってルールは変わります。殺人みたいにいつどこの国でも違法なのとはまったく違う。


もうひとつの「ドーピング」
pierre-taki

ピエール瀧の「ストレス解消のため」という理由(目的)のためにコカインを使用した、それが本当であれ嘘であれ(つまり松本の言うように「いい演技をするため」であれ)自分の体をそのための手段として痛めつけているのだから「ドーピング」と言って差し支えないと思います。

ここからが本題ですが、私が言いたいのは、「作品に罪がある場合もある」と、映画の公開自粛やDVDの販売中止もやむなし、ピエール瀧の作品はすべてこの世から駆逐されて当然、みたいな言説も同じように「ドーピング」だということです。

映画やドラマ製作に携わっている人たちは誰も自分たちの作品をお蔵入りになどしたくないでしょう。しかし、いみじくも松本自身が言ってましたよね。

「スポンサーにクレームを言う人がいて、それでスポンサーが逃げるんでしょうね」

スポンサーやその周辺の偉い人たちはピエール瀧を「手段」としてしか扱っていません。自分たちが非難を受けないようにピエール瀧にすべてをなすりつけて葬り去ろうとしている。

職場でこんな言葉を聞きました。

「この人、『陸王』で悪役やってたじゃないですか。ほんとに悪かったんだぁ」

薬物に手を出すのは「悪い」からじゃなくて「弱い」からですよね? 私も弱い人間だけど金がないからコカインなど買えません。でももし金があったらピエール瀧のようになっているかもしれない。その可能性は充分にあります。誰しもそういう可能性はある。

だから、少しは薬物に手を出す人間の弱さを慮ってもいいのではないか。ピエール瀧を「目的」として扱う、というのはそういうことでしょう。

でも、誰も彼もが「ピエール瀧は悪人として処分されるべき」としか言わない。みんな彼を「手段」としてのみ扱っている。そしてあろうことか、映画やドラマ、楽曲などの作品すべてを「手段」としてのみ扱っている。もし「目的」として扱うなら、簡単に葬り去るなどできるはずがありません。作品に対する「愛情」がない。

坂本龍一が言うように「音楽に罪はない」し、映画やテレビドラマにだって罪はない。

ピエール瀧の行為が「ドーピング」なら、彼を糾弾し、彼の作品すべてをこの世から抹殺しようとしている人たちもまた「ドーピング」に手を出していると私は思います。


UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝以降を大予想!

我がレアル・マドリードが9季ぶりにベスト16敗退という憂き目にあったので、あまり真面目に考えるつもりもないんですが(ダゾーンも解約したし)とはいえ毎年の恒例なので予想してみました。

しかし、一番負けてほしかったバイエルンがリバプールに負けたというのは痛快無比。パリ・サンジェルマンも消えたし、これでバルサが優勝さえしなければマドリディスタとしては言うことなし。

何でも今年は準決勝の抽選がないとかで、それはちょっと面白味が薄くなった感は否めませんが、まぁよろしい。

では私メの予想を。


×アヤックスvsユベントス○
○リバプールvsポルト×
×トッテナムvsマンチェスター・シティ○
×マンチェスター・ユナイテッドvsバルセロナ○



これはもう衆目の一致するところのような気がします。番狂わせがあるといいんですが。シティが負けるとか、バルサが負けるとか。ないか。

では、この結果、準決勝はどうなるかというと、


×マンチェスター・シティvsユベントス○
×バルセロナvsリバプール○



やはり、ユベントスはゴールマシン、クリスティアーノ・ロナウドの加入が大きいようですね。おかげでレアルは弱くなっちゃった。今日、第2次ジダン政権の幕開けですがどうなるか。

それより、バルサとリバプールといえば、06-07シーズンにベスト16で当たり、今回と同じようにバルサのホームで1stレグを戦ったんですが、確か1-2で負けて敗退に追い込まれました。翌シーズンから必ずこのラウンドは勝ち上がり、今季で12シーズン連続のベスト8だそうで、それはともかく、またリバプールの前に敗退しそうな予感。これは決して願望にあらず。相手がどこでも1stレグをホームで戦わないといけないわけで、これでは2ndレグをホームで大逆転する最近のお家芸が披露できない。たぶんリバプールが勝つと思う。

というわけで、決勝カードはこうなる。


リバプールvsユベントス

 
お互い、「クリスティアーノのレアル」の前に準優勝で涙をのんだチーム同士。

私はリバプールに勝ってほしいですが、どうなりますか。

(そういえば来季からアウェーゴール・ルールがなくなるとか。となると延長、PK戦が増えますな。他の決着のつけ方を考えてもらいたい)





『グリーンブック』(いったい俺は何者なのか!)

今年のアカデミー作品賞受賞作『グリーンブック』を先週末に見ましたが、何とも味わいの深く、満腹で万福な感覚を映画で久しぶりに味わわせてもらいました。
以下の文章は感想ではなく、ただの「日記」です。


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『グリーンブック』の絶妙な人物設定
マハーシャラ・アリが演じるドクター・シャーリーという実在の黒人ピアニストは、ヨーロッパで育ったというだけあってフライドチキンの食べ方も知らない高貴な人間で、ヴィゴ・モーテンセン演じる教養がなく粗野なトニー・リップという運転手兼用心棒とは好対照です。

白人相手にピアノを弾く彼は、招かれたレストランで食事をすることを許されない。ロバート・ケネディとも親交があり、日夜白人を喜ばせている彼は同胞であるはずの黒人から快く思われていない。それに加えて映画では軽く触れられるだけですが、ゲイであるがゆえに「男ではない」というふうにも思われている。

それはトニー・リップも同じで、「イタリア系は半分黒人だからな」という差別発言に対し思わず手が出て逮捕されますが、彼もまた「白人でありながら白人ではない」という微妙な立場にいます。


「私はいったい何人なのか!」
画像が見つからないのが残念ですが、この映画で一番の感動ポイントは、それまでトニーに「暴力はいけない」「常に毅然とした態度でいなくては」と説くドクター・シャーリーが、「白人の中では黒人扱いされる。黒人には白人のように爪はじきにされる。私はいったい何人なのか!」と迫害される者の正直な心情を吐露する場面です。これについて異論をはさむ人はほとんどいないでしょう。(ラスト近くで車を止めた警官がまったく差別意識のない人で、「あの時代のアメリカ南部にはああいう人もいたんだ」と胸が熱くなったりもしますが)

いまだ『グリーンブック』の余韻に浸る今日この頃ですが、この「私はいったい何人なのか!」という心の叫びが胸につっかえたままでした。単に映画に感動しただけではないこの感覚は何だろうと思っていたんですが、やっと気がつきました。私自身が同じようなセリフを書いたことがあるのです。


『非国民』
ちょうど10年前ですが、『非国民』というタイトルの脚本を書きました。一言で要約すると「サッカー日本代表の中心選手がワールドカップ開幕直前に代表を辞退したために日本中から非国民扱いされる話」でした。

バルバロイ那覇というクラブに所属する主人公佐藤不二雄が、沖縄とアイヌと在日の差別に直面し、「日本とは何ぞや」と考えざるをえなくなり代表を辞退するんですが、それが原因で殺されます。そしてさらなる悲劇が起こります。不二雄の代わりに代表入りした選手はブラジルから帰化したマリオという男なのですが、このマリオが2014年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会の開幕戦で大活躍して日本はブラジルに勝つ。しかし、そのためにかつての同胞から「HIKOKUMIN!」と罵られ、試合の翌日に自殺します。

大混乱の中でも大会は進行し、ポルトガルが優勝するという筋書きでした。優勝チームの主将も元ブラジル人でインタビューで叫びます。

「私はインディオの血を引くブラジル人だったが、わけあってポルトガルの国籍を取得した。私はいったい何人なのか! マリオは自殺した。不二雄は殺された。いったい誰が殺したのか! 私たちだ。私たちが殺したのだ……」

ずっと忘れていたセリフを思い出しました。「私はいったい何人なのか!」

私自身が似たような感覚に襲われるときがあります。いったい「どちら側」の人間なのか、と。

私は人と違うことを好みますが、「それは普通の日本人っぽくない」とよく言われます。
年相応だと言われることもありますが、実年齢より老成していると言われたこともあるし、子どもっぽいと言われることもあります。
東京生まれの神戸育ちのため、東京弁も関西弁も喋れます。「出身地」はいったいどちらなのか、よくわかりません。
高卒なのに大卒にしか見えないと言われます。学歴を鼻にかける人からは高卒のくせにと蔑みの目で見られます。
「おまえのようにたくさん知識のある奴は知ったかぶりをするのが普通なのに、おまえはそうじゃない」と言われます。その一方で、親譲りの天然ボケのためか「頭がいいのか悪いのかぜんぜんわからない」と言われます。
映画作りを目指す友人からは「批評なんかするな」と言われます。批評家の知り合いからは「物語を作れるなんて驚異の一語」と言われます。
ホワイトカラーの人たちのブルーカラーを蔑む気質が好きになれません。なのにブルーカラーの人たちといると自分だけ異質な気がします。「あなたは私たちの仲間ではない」という視線を感じてしまう。


いったい俺は何者なのか!

あのマハーシャラ・アリの絶叫に多くの人が感動するのは、人間がみな「我々はどこから来てどこへ行くのか」を追究する存在だからでしょう。

差別とは人間をジャンル分けすることです。

性別
年齢
人種
国籍
学歴
出生地
現住所
家族構成
年収

などなど、差別する気などなくても、人は自分以外の人間をジャンル分けして暮らしています。

そして、どちら側でもある人間がおそらく一番苦しい。

そうか、『非国民』とはそういう物語だったのか。

自分で書いたくせにいま初めて知りました。


greenbook1


ギャラリー
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